アーサナ・呼吸法・冥想
アーサナで、体が軽くなる。
呼吸法で、元気になる。
冥想で、智慧が磨かれる。
あまり考えずに、気軽に、毎日、そんな感じでやっていて、時々言葉が浮かんでくる。
でも、いい言葉だなと思っても、終わるとすぐに忘れてしまう。
たまたま今日は、覚えていた。
これがいことなのか、悪いことなのかは、わからない。
アーサナで、体が軽くなる。
呼吸法で、元気になる。
冥想で、智慧が磨かれる。
あまり考えずに、気軽に、毎日、そんな感じでやっていて、時々言葉が浮かんでくる。
でも、いい言葉だなと思っても、終わるとすぐに忘れてしまう。
たまたま今日は、覚えていた。
これがいことなのか、悪いことなのかは、わからない。
アーサナは、自我を頼る。
呼吸法も自我を頼る。
冥想も自我を頼る。
無は何も頼らない。
無は、神秘の扉を開く。
無は想念ではない。
無は、冥想ではない。
無は、時間がない。
無の時、神秘の扉は一瞬にして開く。
利口だと思っていると、自分が考えたことを語る。
利口だと思っていないと、事実だけを語る。
いいことをしていると思っているときは、うそをつく。
悪いことをしていると思っているときは、真実を語る。
支配しようと思っているときは、捏造する。
平等だと思っているときは、何も語らない。
正しいことは、必ずしも正しくない。
誤りは、必ずしも誤りではない。
幸運は、兆しにもならないような小さな出来事から始まる。
だから、どんなことでも丁寧に取り組み、一つ一つを積み重ねていくことが大切だ。
「アーサナができるようになった」「病気が治った」などというときの「できる」とか「直る」という言葉を単純に考えがちですが、「自分ができた」というときの「できた」「治った」の意味が、ほかの人の「できた」「治った」とは、必ずしも同じではありませんね。
しかし私たちはつい、「自分と人は同じ考え方、同じ単語には同じ意味で使っている」と、思い込んでいるものですね。
このことを静かに反省させてくれる文章に出会いました。
医療ジャーナリスト・北村昌陽氏が味わった“世界観の転換” です。
このことの真の理解は、ヨーガを追求するうえで、とても大切なことだと思いました。
ちょっと遊んでみました。
老子「道徳教」をヨーガに当てはめたらどうなるだろう。
人がヨーガだというヨーガは、ヨーガではない。
アーサナだというべきものは、アーサナとは呼ばない。
アーサナだと名付けるものはない。
名前がないところが、ヨーガの始まりだ。
名前を付けると、アーサナは無数にできてくる。
ヨーガで何かしようなどという欲望がなければ、妙なる本質を見るし、
欲望があるとアーサナという形体を見ることになる。
本質と形体は、もともと同じだけれど違って名付けられる。
その同じものを玄という。
しかし、玄というとまた二つに分かれてしまう、だから玄の玄を追求する。
そこに、妙なる本質への入り口がある。
道徳教は、どう書いてある?
「道の道とすべきは、常の道に非ず。
名の名とすべきは、常の名に非ず。
名無きは天地の始め、名有るは万物の母。
故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の微(きょう)を見る。
その両者は、同じきに出でて而も名を異にする。
同じきをこれ玄と謂い、玄の又玄は衆妙の門なり。
他にどんな書き換えができるかな……。
自分の抜け殻にこだわる動物はいない。
蛇でも昆虫でも、抜け殻はもう自分の一部ではないからだ。
ところが、人間は違う。
つい、業績、実績などにこだわってしまう。
他人もそうだ、人の実績を評価する。
それは抜け殻を評価するようなものだ。
評価される方はうれしいし、ありがたい。
資格が得られたり、収入が増えるからだ。
そして、抜け殻を抱えていると、だんだん重くなる。
重さに耐えられなくなる人もいるだろう。
虚しさを感じる人もいるだろう。
でも、どうしてもこだわりを捨てられないのだ。
でも、新しいものを次々に創っていく人は違う。
抜け殻なんて、忘れるからだ。
なぜ?
創ることは、喜びだから……。
旅行をする人は、旅をしない。
旅をする人は、旅行をしない。
観光のさかんな今日、旅人は稀になった。
旅をする人は、居場所を探している。
人は自分の居場所がどこにもないということにやがて気が付く。
このように悟った人は、「居場所がない」というその場所に、居場所があることを知る。
世界が、宇宙が丸ごと「私の居場所なんだ」と、知る。
時間は、バグワーン(神)。
時間は、ブラフマン。
時間は、ダルマ。
すべての問題は、時間が解決する。
無心でさえあれば…。
今年は、温泉に入ったりヨーガを指導したりということが2回ほどあった。
気にもとめずに居たのだけれども今夜、自宅でゆったりと風呂に浸かりながら、一つ思いついた。
日本には、あんまというのはあるが、アーユルヴェーダやアロマオイルのマッサージのようなものは、なかったんじゃないか。
昔から、湯治と言うのがある。
これで、多くの病気が治っていた。
これが、日本の医療の本質ではないか。
マッサージだけでなく、色々な手技がある。
針灸というのもある。
こうした手技は、誰かに施術してもらわないと成り立たない。
ところが、湯治は、一人ゆったりと湯舟につかるだけだ。
砂風呂なんて言うのも同じだろう。
温泉では、湯舟に浸りながら、のんびりとおしゃべりをしてもいい。
ヨーガと共通するのは、一人でできるということだ。
アーサナを一通り覚えてしまえば、難しい理論も、技術も習得する必要はない。
現代は、湯治に何週間、何ヶ月を使うという心のゆとりがない。
その分をヨーガと組み合わせれば、単日時で出来る。
来年は、こうしたイベントをしようかな。