シャバアーサナ
シャバアーサナは、リラクセーション法ではありません。
でも、難しいので普通は、リラクセーション法として利用しています。
僕がインストラクションするときもそうです。
本当のシャバ―アーサナを説明するときは次のように言っています。
シャバアーサナの意味は、屍のポーズといいますが、まさに屍になることをシャバアーサナといいます。
つまり、死体になりきることです。今この瞬間、屍になってみてください。
屍は「無」の状態ではありません。「空」でもありません。
生きていて、そんなことできますか。だから、極限の難しさがあるのです。
ラーマナ マハリシの体験が 「南インドの冥想」(おおえ まさのり訳、編 大陸書房)の23ページにに書いてあります。以下に引用してみましょう。
1896年7月、マハリシが待ち望んでいた精神的体験が、突然彼を襲った。ラマナは家の一階で人りで座っていた。彼はいつもと同じく健康であったけれども、そのとき突然まごうことなき死の恐怖が襲ってきた。彼は今にも死んでしまいそうに感じた。しかしなぜだかわからないけれども、それに打ち負かされはしなかった。彼は穏やかに、今何をなすべきかを自己に問いかけた。
「今、死がやってきた。それはどういうことなのだろうか? 死につつあるものは何なのだろうか? 死ぬのはこの肉体だ。」
彼はそれから四肢を伸ばしたまま横になり、口を堅く閉じて呼吸を止め、外形上はあたかも死骸が横たわっているかのようになってしまった。いったいこの時マハリシの身には何が起こったのだろうか。マハリシはそのときこのように考えていたという。
「ああ、この肉体が私なのだろうか? 周りは静かでひっそりとしている。だが私は私の個性が力いっぱい溢れているのを感じるし、私の内部にある、肉体とは別の「私」の声を聞き取ることさえできる。従って私は肉体というものを超越した意識なのだ。肉体は死ぬけれども、それを超越しているこの意識は決して死ぬことはない。つまり私とは不死の意識なのだ。」
後年マハリシがこの体験を帰依者たちに語ったとき、それはともすれば一つの論理的思考の過程であったかのように解釈された。しかし彼はそうでなかったことを注意深く説明している。その「私とは意識である」という理解は突然に閃いたのである。「私」とは極めてリアルで、また唯一のリアルな実在であった。こうしたことを彼はすべて直感的に悟ったのである。
引用は、以上です。シャバアーサナとは、このような体験を促すものと考えると、シャバアーサナ(屍のポーズ)と呼ばれる意味が分かると思います。
「南インドの冥想」ほど、ヨーガの本質を分かり易く書いた本はないでしょう。
ぜひ読んでいただきたい本のトップに入ると思いま。