時間は神
時間は、バグワーン(神)。
時間は、ブラフマン。
時間は、ダルマ。
すべての問題は、時間が解決する。
無心でさえあれば…。
時間は、バグワーン(神)。
時間は、ブラフマン。
時間は、ダルマ。
すべての問題は、時間が解決する。
無心でさえあれば…。
資格を捨てることが出来て、始めて資格は獲得されたことになる。
資格を与えるものは、未熟だから、資格を与えることが出来る。
本当に資格を持つものは、ひとに「資格を欲しい」と言われても「そんなものは、どこにもない」と、当たり前に言えるに違いない。
私は、ヨーガやそれに関係するいかなる意味の資格も、普通云う意味で持ったことはない。
なのに、資格を欲しいと言われると「それならこうすれば、資格証明書を出してもいいよ」ということがある。
それは、私が極めて未熟な証拠である。
少なくとも「そんなものは、世界中どこを探しても、あるわけがない」どうしても欲しければ「ほかを当たることだ」と、さらりと言えるようになりたい。
これは、最小限の希望だ。
これすら超越したところが地平線のぎりぎりのところにようやく見え始めた。
冥想の長短に価値の違いがない。
冥想の深さに価値の違いはない。
本来の自己は、冥想をしていても、していなくても、いつもここにある。
本来の自己は、冥想によって変化するものではない。
ありのままに今ここにあるというだけのものだから。
一瞬その自己に気が付く。一瞬のその自己のになり切る。
これを瞬間冥想という。
瞬間冥想を繰り返しているうちに、自我の変容が起きる。
自我の変容で、人生が変わって行く。
ヨーガは、体操だけがヨーガではありません。
後悔なく生きるための方法の全てをヨーガといいます。
私は、次のように考えるのです。
昔インドには、今でもそうですが、インドにはさまざまな宗教や人生哲学があった。
それぞれには、後悔なく生きるための理論と方法、つまり冥想や呼吸法、マントラやタントラなどがあった。
生活の智慧やその中には何かを成し遂げるための心構えなども含まれていた。
そういう理論と方法とをおおざっぱに、ヨーガという言葉で表したのではないか。
それがやがて、サーンキャ哲学の枠組みの中で、一つの用語としての意味付け、定義付けが行われた。
一般の人にも分かる形で、詩として語られたものが、バガヴァッドギーターではないか。ギーターとは、詩という意味を持つ。
そして、バガヴァッドギーターは、マハーバハーラタの中に組み込まれた。
何千年もの間いつでも、何億人という人たちが、喜んだり苦しんだり悩んだりしている。そうした人生模様を代表してバーラタ族の人たちの生きざまを通じてつくられた叙事詩が、マハーバハーラタだった。この叙事詩には、後悔なく生きるためのの工夫が込められていたのだ。
つまりマハーバーラタには、サーンキャ哲学と生きるための智慧であるヨーガが織り込まれていた。
そういうすべての中から、生理学的な、体操的なヨーガが生まれた。
ハタヨーガだ。
生理学的な、体操的なヨーガにも、いろいろなものがあった、浄化法、食事法、チャクラやナーディーといったことを通じての冥想もあった。
やがて、そういうものを集めて、百科事典のようなものが造られた。
それが、例えばハタヨーガプラビティーカなどである。
というわけで、体操のヨーガは、とても役に立つヨーガであるが、それがすべてではないということをご理解していただけたらと思う。
どうも、欧米思想では、無とか、空ということを受け入れにくいのではないか。
心を無にするとか、無心になるということに不安を感じるのかもしれない。
それで、心を満たすことを求めている。
マインドフルにしようということだ。
悩みや不安があったとする。
そこから、解放されるには、
いったん、悩みの対象に対する意識を捨てなければならない。
対象に対する意識を捨てて、いったん、心を自分の体に引き戻すこと。
このことで、少し心が落ち着く。これをマインドフルネスというようだ。
でも、それは、次に進まなければならない。
次とは、マインドフルにした心を捨てるということだ。
それが、無心になるということ。
そして、無心を深めていくことが、東洋の智慧だ。