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真剣に自分の悩みを解決しようと日々努力しているとき、突然、すべてを革命的に変える答えが出てくることがあります。

悟り体験をしたときの印象が残っている内に、話を聞くことは、めったに出来ない体験です。

たまたま、スロベニア人のKlavdijaさんからその話を(日本語で)聞くことができました。

このような体験をありのままに言葉にすることが難しいので、訥々と話すことになりますが、この対話を記録できたことは誠に幸運でした。

これを2本のYouTubeT動画にしました。

1本目では、体験そのものを語っています。

https://youtu.be/5HH9i2ZUXLc

約7分。

2本目の内容は、

この体験をすることで、自分の使命にめざめ「自分が本当に考えている教育の在り方」学びなおすために、途中でやめていた博士課程を先に進めようと思ったこと、

心は、常に変化するので、今後、この思いが続くか吟味しようと彼女は考えていること、を語っています。
彼女は、「自身の精神心理的な悩み」を解決するのに苦労をしてきました。このような悩みの源は、教育にあると考え、スロベニアに帰って以後もヨーロッパ各地で実践的に本当の教育の在り方を模索しています。

https://youtu.be/rRURscWgW2s

約12分。

水天需

 易を立てると、気がかりなことがしばしばズバッと出ていて、不思議に思うことがあります。
今日何気なく易用のサイコロを振って出てきたのが、水天需の「六爻変」でした。

水天需の言葉の読み下しは、「需(じゅ)孚(まこと)あり。貞(てい)なれば吉なり。大川を渉(わたる)に利(よ)ろし。」で、大雑把に、「謙虚な心で落ち着いていれば、大きなことがらもうまくいく」といった意味でしようか。

 

各言葉を深く掘り下げると深い内省が必要ですが、今日の立て方は略筮なので、「六爻変」の意味を主に考える必要があります。

第六爻は「上六」といい、次のように書いてあります。
「上六。穴に入る。速(まね)かざるの客三人来るあり。これを敬すれば終には吉なり。速(まね)かざるの客来る、これを敬すれば終には吉なりとは、位にあたらずといえども、いまだ大いに失わざるなり」

実際に即していうと、「大変お世話になっていて、本来ならばこちらからお尋ねしなければならない立場にあるお客さが、私のためにわざわざ来て下さるのだから、尊敬の心を持ってお迎えすることが大切」というような意味になります。

その方が近々来られるという話があり、どのような準備をしたらいいか気がかりでした。
それがそのまま出ているのです。
ただ、二人で来られるという話です。「客三人来る」とある意味は、三名で来ると解釈できそうです。

(注)易用のサイコロ:八面のサイコロを2個と、六面のサイコロ1個のセット。

呼吸法の極意

質問がありました。

「どのように呼吸法をしたら、効果が出ますか、…」

答えは、簡単です。

「続けることです。1日に、30分ぐらいずつ、必ず毎日する」

私は、思います。

呼吸法の極意は、これしかないと、。

常のヨーガにあらず 常の名にあらず

ちょっと遊んでみました。
老子「道徳教」をヨーガに当てはめたらどうなるだろう。

人がヨーガだというヨーガは、ヨーガではない。
アーサナだというべきものは、アーサナとは呼ばない。

アーサナだと名付けるものはない。
名前がないところが、ヨーガの始まりだ。

名前を付けると、アーサナは無数にできてくる。

ヨーガで何かしようなどという欲望がなければ、妙なる本質を見るし、
欲望があるとアーサナという形体を見ることになる。

本質と形体は、もともと同じだけれど違って名付けられる。

その同じものを玄という。
しかし、玄というとまた二つに分かれてしまう、だから玄の玄を追求する。
そこに、妙なる本質への入り口がある。

道徳教は、どう書いてある?  
「道の道とすべきは、常の道に非ず。
名の名とすべきは、常の名に非ず。
名無きは天地の始め、名有るは万物の母。
故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の微(きょう)を見る。
その両者は、同じきに出でて而も名を異にする。
同じきをこれ玄と謂い、玄の又玄は衆妙の門なり。

他にどんな書き換えができるかな……。

 

こだわらない心

自分の抜け殻にこだわる動物はいない。
蛇でも昆虫でも、抜け殻はもう自分の一部ではないからだ。
ところが、人間は違う。
つい、業績、実績などにこだわってしまう。

他人もそうだ、人の実績を評価する。
それは抜け殻を評価するようなものだ。
評価される方はうれしいし、ありがたい。
資格が得られたり、収入が増えるからだ。

そして、抜け殻を抱えていると、だんだん重くなる。
重さに耐えられなくなる人もいるだろう。
虚しさを感じる人もいるだろう。
でも、どうしてもこだわりを捨てられないのだ。

でも、新しいものを次々に創っていく人は違う。
抜け殻なんて、忘れるからだ。
なぜ?
創ることは、喜びだから……。

 

深さ

        深さ
深さのない生涯はさびしい
カントはその町以外に
ただ一歩も踏み出さなかった
キリストの伝道区域は
わずかに方二里であった
あえて問う、活動とはなんの謂(いい)ぞや
あれをみよ深山(ミヤマ)の奥に花ぞさく
       まごころつくせ人知らずとも
人生はひろさよりも深さである
                                      (後藤静香著、権威より)

コロナ時代に、改めて考えています。
ついでに、もう一つ後藤静香の言葉をご紹介します。

必ず変わる
三日でも変わる
三年たてば
見違えるほど変わる
いくつになっても
その気になれば
ぐんぐん進む
変わることを信じて
発奮すれば
必ず変わる
この信なくこの勇なきもの
あたら宝玉を塵(チリ)にうずめる

今のコロナ騒動は、新しい時代、新しい自分に変わるチャンスのような気がします。

超越ではなく横超

親鸞の言葉に、「横超(おうちょう)」というのがあります。これは「横ざまに超える」ことで、ふつう言う超越とは意味が違います。親鸞は、超越することを竪超と言っています。

「超越とか堅超は、上へ向かって努力して乗り超える、飛び超える」ことですが、横超は、努力が要りません。
「すぐ隣にある道へ一跨ぎすれば、本当の悟り、自由自在な自分が歩んでいることに気が付く」というようなイメージでしょうか。

私が言おうとすることは、ヨーガの話です。
一所懸命努力して、アーサナ、呼吸法、冥想を日々練習し、生活も正しく調える、そしていつしか幸せな自分、自由自在な自分(カイヴァリヤ)を獲得するというイメージが、ヨーガです。

横超は、そうではありません。
「横ざまに超えたら、アーサナ、呼吸法、冥想、生活の全てが、そのまま自由自在な自分が現前している」ということになります。

これは、ヨーガスートラやハタヨーガプラビティーカなどとは違う道と言えるかもしれません。

バガヴァッドギーターでいう「バクティ」に相当するといっていいでしょう。
「バクティ」は日本語で、信愛、献身と訳されますが、普通に理解されるよりも、もっと徹底的に人生そのもの、命そのもの、存在そのものありようを信じ切った態度です。
これは、苦しんだり悩んだりしていることの全てが、悟っていることそのものの現れだということになるかと思います。

坐禅・冥想は特別なことではない

特別な意識状態を得るためとか、大きな問題を解決するためとかに、冥想・坐禅をするのもいいかもしれない。

しかし普段のあたりまえにする生活行動のなかに、坐禅・冥想はある。
それに気が付かないだけだ。
それをそのまま深めれるには、特別なことをする必要もない。

姿勢を調える(アーサナ)こと、呼吸を調えること(プラーナーヤーマ)。只そのようにすればいい。

自分が本当に求めることが今あれば、生活を調える。そして只姿勢を調え、呼吸を調える。
それを無理なく気持ちよくできるには、当たり前の生活を調えることだ。

ヨーガを教えたらヨーガではなくなる

教えるということには、作意がある。教わるのも作為がある。
ヨーガは、教えたり、教わったりするものではない。

ようやく、このことが身についてきた。
ヨーガ教室では、当然、ティーチャーと生徒がいる。

ティーチャーとか生徒とかは、記号に過ぎない。
そこにいるのは、ヨーガの道を歩む人たちだけだ。
10人いれば、10本の道がある。
そう!
一人一人、自分の道を歩んでいる。
同じ場で、一緒にヨーガをしていても、道が交差しているわけではない。

誰であろうと、私たちは、自分一人だけの道を歩んでいる。
このことを忘れてはならない。


冥想と無

ベースとして、意識は「無」。

「無」の時間は、自我が表に現れていないから。

いつ自我が消えていたか、どのくらい消えていたかを知らない。

自我は、自我自身が自分という存在の中心ですべてであるという誤り(自惚れ)に気づく営みを冥想という。

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