常のヨーガにあらず 常の名にあらず
ちょっと遊んでみました。
老子「道徳教」をヨーガに当てはめたらどうなるだろう。
人がヨーガだというヨーガは、ヨーガではない。
アーサナだというべきものは、アーサナとは呼ばない。
アーサナだと名付けるものはない。
名前がないところが、ヨーガの始まりだ。
名前を付けると、アーサナは無数にできてくる。
ヨーガで何かしようなどという欲望がなければ、妙なる本質を見るし、
欲望があるとアーサナという形体を見ることになる。
本質と形体は、もともと同じだけれど違って名付けられる。
その同じものを玄という。
しかし、玄というとまた二つに分かれてしまう、だから玄の玄を追求する。
そこに、妙なる本質への入り口がある。
道徳教は、どう書いてある?
「道の道とすべきは、常の道に非ず。
名の名とすべきは、常の名に非ず。
名無きは天地の始め、名有るは万物の母。
故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の微(きょう)を見る。
その両者は、同じきに出でて而も名を異にする。
同じきをこれ玄と謂い、玄の又玄は衆妙の門なり。
他にどんな書き換えができるかな……。