アーサナや呼吸法やらをたくさん覚える必要はない
私がつくづく思うことは「自分が、魂が求めるままに、行ってきたこと、気が付いたこと、方法、そういうことは、ヨーガの古典を読んでいると、どこかに書いてある」ことだ。
修業時代から今日まで、あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、時にはせき止められたり、滝となって落ちたり、そういう中で、魂が学んで来たことは、先哲もまた、そのように学んだのかもしれない。
そして、誰もがそのように学ぶのかもしれない。
だから逆に、高度な技術は役に立たない。
ハタヨーガプラビティーカの一節ずつ、読み進むうちにそのように思った。
「古典には、自分の人生にとって、魂の喜びにとって、無駄な言葉や技術もたくさん入っている」と。
スマホやパソコンの中には、たくさんのソフトウエアー、最近はやりの言葉でいえばアプリが入っている。たいていの人は、その中のいくつか、自分が使ういくつかしか動かさない。そのほかのアプリは自分にとって、無駄以外の何物でもない。
ヨーガの技術も同じだ。
魂の求めるものは、そんなに多くはない。
次々と新しい、アーサナや呼吸法、浄化法、冥想法を覚えたり、まして人に教えるなどということは、およそ意味がない。
なぜなら、一人一人がそれぞれに魂の求めに従っていれば、それぞれ自然にそういう技を使っているものだから。