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高度なアーサナができたり、たくさんの呼吸法を覚える必要はない

アーサナの種類は、現在どのくらいあるだろうか。ありすぎて数える気にもならない。
しかも、ヨーガのやり方や「◯◯ヨーガ」と名乗る種類も次から次と生まれている。
そして、呼吸法や冥想法もたくさんあるし、昔から行われてきたものなのに新しい名前がついているものも次々と制作されている。

じゃあ、自分はどれをどの位したらいいのか。
どれが優れた方法で、どれが劣った方法なのか。
科学的に証明されたといっても、自分にとっていい方法だと証明されているわけではない。
すべてをすべての組み合わせで、試してみるしかない。
そんなことは一生かかっても、終わらないだろう。

自分が、自分の人生において何を求めているのか。
そのことを明確に意識しながら、ヨーガの中に答えを求めていると、自ずから、ピタッとするものに出会う。
自分の歩む道を、それとなく差し示してくれる師に出会う。

それは、優れて有名な師とは限らない。
あらゆる人、あらゆる出会いが自分の師となりうるからだ。
そして、その道を歩むために必要な道具としての、アーサナや、呼吸法、冥想法は、驚くほど簡単で、シンブルなものである。
それを心の求めるままに丁寧に繰り返し実施し続けることである。

「世界はアーシュラム」ってどういうことですか?

ある人に聞かれました。私は、次のように考えています。

アーシュラムとは、道場のことですね。
たとえば、ヨーガ アーシュラムといえば、ヨーガの道場のこと言うのはご存知のとおりです。
修行者の住む庵を指したり、自分の家を指すこともあります。たとえば、インドを独立に導いたガンディーは、サーバルマティー アーシュラムを拠点に活動をしたことで有名です。このアーシュラムで彼はカースト制を否定しすべての人間は平等だという考えを徹底して実践したことで有名です。

話を元に戻すと、アーシュラムとは道場のことです。
この意味で、自分が生きている世界そのものが、自分にとってアーシュラムではないかと思うのです。
以前は、自分の体こそが自分を真に自分たらしめるアーシュラムだという使い方もしたことがあります。
だからヨーガをする、だから生活における禅の探求ということがあるのだと、そんな風に考えていました。

それが間違っていたというのではなく、もっと広く、真実の自己を求める者たちが生きているこの世界が、自分を深め、人生を真の人生たらしめる場、家という意味で、アーシュラムという言葉を使ってもいいなあと、この頃考えているのです。