Monthly Archives: 1月 2022

未知の力

道端や庭に生い茂る雑草。
それがどんな植物かなんて、考えたこともない。
当然、写真を撮ることなど思いもつかないできた。

最近、古い薬草図鑑をみていて、
雑草の中には、とんでもないすごい薬効のあるやつがたくさんいると知った。
いくら摘んでも、毎年花が咲き、実をまき散らす。
困ったものだと思っている、そういう雑草に、すごい薬効があったのだ。

日常生活の何気ない出来事の中に、
特別なことは何もないような日頃のおしゃべりの中に、
これといった取り柄があると思えないような自分のなかに、
誰かの役に立ちたいと思っても、なかなかできない自分の中に、
未知の力が眠っているのかもしれない。

雑草の中に未知の力が眠っているように…!

インストラクター : 人に教えるのではなく

ヨーガのアーサナ、呼吸法、冥想を教えているとき、また、講義をしているとき、

本当は、教えているのではない。

永年、ヨーガをしていてつくづく知る。

インストラクターは、自分に教え、自分言い聞かせるものだと、。

教えているつもりでいる時は、本当に教えていないのだ。

教えていないときに、真実は自然に伝わる。

どうもそういうものだ。

 

いのちとは喜びの波動

波動は、体と心の共鳴。

いのちとは、喜びの波動。

冥想で、内なる世界の深淵にたどり着くと、内なる世界から湧き上がるなにものかが自我に接触する。

その時自我は、静かな喜びの波動を感じる。

その喜びの中から、新しい何者かが実現していく。

これは、思考、つまプラス思考というものではなく、思考を超えた、命の波動だ。

 

 

 

生きがいがわからなくなったとき

こんな質問がありました。
「私は、生きがいについて、気にしたことがありませんでした。生きがいは、人生の目標のようなものと思っていたのですが、いつのころからか、生きがいがはっきりしなくなっていました。
生きがいをはっきり感じられるようなアドバイスをいただけませんか」

こういう質問を若い方から、時々受けます。
こういう時、私は次のように答えます。
「生きがいは、環境の変化によって変わってしまうことがありますが、身心の成長の過程で変化するものです。
内なる自己が成長することから『生きがい』がわからなくなるのは、当然のことです。
そういう時は、潜在意識から、新しい『生きがい』が現れてくるのを待っていればいいのです。

易経の水天需(すいてんじゅ)という卦があります。
この中に「雲の天に上るは需なり。君子もって飲食宴楽す」という言葉があります。
この意味は「今か今かと雨を待っているときに、雲が厚くなってきました。もうじき、降り始めるのだから、あせらずに、ごちそうでも食べながら待(需 )っていればあなたの願いはかなえられるでしょう」です。

「これは、一所懸命生きている人の自分の立場を正しく理解している人の待ち方です」という意味が付け加えられています。

 

全力投球とは?

「全力で…」という言葉があります。
「全力」とは、何でしょうか。
例えば、野球で「全力投球」という言葉があります。
筋力を最大限に発揮することなのでしょうか。
「絶対に三振に打ち取ってやる」というような強い意志をもって投球することなのでしょうか。

そう、これらは、単なる「力み」でしかありませんね。
では、
どういうことをするのを「全力」という言葉を使うのでしょうか?

私は最近ちょっとしたことから、腰を痛めてしまいました。
検査してもらった結果、骨に異常がなかったことから、筋、腱の炎症がおさまるまで、休養が大切だということになりました。

ただそれだけでなく、筋力が衰えてしまわないように、ゆるりゆるりと体を使いながら、その時々の状態に応じた、姿勢と呼吸と動き方を工夫する毎日がまた、大切になるったわけです。
これは、まさにヨーガですね。
こういうとき、動作の一つ一つを全力で行わなければなりません。
それは、力みがなく、無心の冥想をするような感覚です。
「ああ、全力とはこういうことなのだなあ」と実感しました。