旅と旅行
旅行をする人は、旅をしない。
旅をする人は、旅行をしない。
観光のさかんな今日、旅人は稀になった。
旅をする人は、居場所を探している。
人は自分の居場所がどこにもないということにやがて気が付く。
このように悟った人は、「居場所がない」というその場所に、居場所があることを知る。
世界が、宇宙が丸ごと「私の居場所なんだ」と、知る。
旅行をする人は、旅をしない。
旅をする人は、旅行をしない。
観光のさかんな今日、旅人は稀になった。
旅をする人は、居場所を探している。
人は自分の居場所がどこにもないということにやがて気が付く。
このように悟った人は、「居場所がない」というその場所に、居場所があることを知る。
世界が、宇宙が丸ごと「私の居場所なんだ」と、知る。
教えるということには、作意がある。教わるのも作為がある。
ヨーガは、教えたり、教わったりするものではない。
ようやく、このことが身についてきた。
ヨーガ教室では、当然、ティーチャーと生徒がいる。
ティーチャーとか生徒とかは、記号に過ぎない。
そこにいるのは、ヨーガの道を歩む人たちだけだ。
10人いれば、10本の道がある。
そう!
一人一人、自分の道を歩んでいる。
同じ場で、一緒にヨーガをしていても、道が交差しているわけではない。
誰であろうと、私たちは、自分一人だけの道を歩んでいる。
このことを忘れてはならない。
「自我を捨てる」と、いってしまうとそれは、自我の働きだ。
「自我が消える」。
おのずから消える時、やっと、自我は消えている。
おのずから消えているために何が必要か。
ヨーガのアーサナ、呼吸法だ。
意識は、アーサナという行為に、呼吸という行為に向く。
その時、自我は静かに意識の背後に消えて行く。
このことを冥想という。
これが、ヨーガだ。
「あなたは誰ですか」
そう聞かれた時、「私は、……。」と、名前や、所属など、いくら言ってもそれは「私」そのものではない。
ならば、手があって、胴があって、など体のすべての部分を足し合わせても「私」そのものではない。
「私は考える」といったところで、考えているのは「私」そのものではない。
これらはみんな、自我の働きだからだ。
ならば「私」は、誰?
自我が、「私」という存在の主役だという自惚れを捨てると、「私」そのものが厳然として存在する。
ヨーガとは、このような、自我を捨てることを言う。