自然体ヨーガ
自分のヨーガは、自然体だろうか。
呼吸法は、自然体だろうか。
どこか、心に無理がないだろうか。
欲張っていないだろうか。
得意になっていないだろうか。
卑下していないだろうか。
自然体だろうか。無心だろうか。
このように、考えることがすでに、自然体から離れている。
考えなくても、自然体ではない。
無限に広がっていく、心の宇宙の地平線見ながら、そのように思う。
自分のヨーガは、自然体だろうか。
呼吸法は、自然体だろうか。
どこか、心に無理がないだろうか。
欲張っていないだろうか。
得意になっていないだろうか。
卑下していないだろうか。
自然体だろうか。無心だろうか。
このように、考えることがすでに、自然体から離れている。
考えなくても、自然体ではない。
無限に広がっていく、心の宇宙の地平線見ながら、そのように思う。
この問いは、禅の公案にありますが、それを離れて、ごく普通に考えてみました。
ダルマさんは、インドの王族の生まれで、かなり年配になってから、旅立ち、3年かけて中国の港に到着しています。
そして、武帝との問答の後、少林寺の洞窟にこもって、8年間坐禅をします。
弟子にしてくれという人がいても拒み続け、ようやく4名ほどの弟子を取ります。
その弟子の後継者たちが禅宗を作っていきました。
いろいろ調べてみると、達磨さんは禅宗という組織を作るため、あるいはそういう思想を伝えるために、中国に行ったとは、考えにくいところがあります。
そこで、私は、達磨さんはただ静かに、冥想(ディヒャーナ)を出来る環境を求めて、故郷を離れ、少林寺に到達したのではないかと考えています。
そして、彼は、徹底的に彼自身の内面の問題、真実の自己をしっかりつかみ取りたかったのではないかと、考えています。
空なる本質、プルシャ、どう呼ぼうと、「それ」は、いつでもそこにある。
ことさら冥想をして、サマーディーからカイヴァルヤの境地を特別に体験するのではなく、
生活という冥想が、カイヴァルヤそのものをもたらしている。
私は、冥想をするが、それは当たり前になっている。
だから、生活が冥想なのだということが分かってきたのかもしれない。
カルマヨーガの生活は、永い年月の間に、ゆっくりと熟成していくもののようだ。
いのちというもののありようなのかもしれない。
坐禅やヨーガのサンマヤ、チャクラの冥想その他、を行って強力な悟り体験や、冥想体験をし、人格変容したという話は、いろいろなところで語られるし、そういう体験をしたいと思うものだ。
しかし、ごく普通の生活を送る中で、多くの困難に遭遇したり、苦悩を繰り返す中で、素晴らしい人格を成長させた場合は、ほとんど知られることがない。
本人も気が付かないかもしれない。
でも、そういう人に出会ったとき、何かとても魅力を感じるのは、私だけだろうか。
こころが折れても、
なんど折れても、
立ち直る。
そして、さらに元気に生き抜いて行く。
命というものは、そう言う力を持っている。
心が折れちゃいけないようにと、
昔は、頑丈な心にするのがいいと、考えられていた。
今では、しなやかな心でしのぐのがいいと、考えられている。
でも、折れちゃうことってあるのじゃない?
折れたらどうしたらいいの。
立ち直ればいい。
ありのままの事実を土台にして、ありのままに立ち上がればいい。
それが命の力、
命の力に沿って歩むことをヨーガといい、道と言う。
「折れてもいいんじゃない!」
折れるからこそ、修復し、さらに力強く成長し、
美しい花を咲かせ、豊かな実りをもたらす。
折れるからこそ大きくなる。
折れるという事も能力の1つではないか。
菊芋は、
台風で根こそぎやられても、綺麗な花を沢山咲かせる。
そして、大きな芋を沢山つける。
「命って、相当な事があってもへこたれない。
へこたれても、立ち直る。そういう力を持っていいる」
野菜も、樹木も、なかなかにしぶといものだ。
いつでもどこでも、普通の生活のなかで、
さり気なく冥想している。
自分も冥想していると思わないから、人から見ても冥想しているとは見えない。
そういう冥想が、まことの冥想ではないか。
私は、呼吸法と冥想、アーサナを日々行っている。
そして、それを教えてもいる。
また、ここのところ必要があって、ヨーガスートラにおける冥想の何かを追求してもいる。
そして、冥想というのは、特別な意識状態になるためのものという、皆の考えと同じ考えを持ちそれに疑問を持ったこともなかった。
そういう中で、禅とヨーガ、日本とインドの文化の底に流れるものが何か、整理して、スライド作成をしていた。
和歌俳諧、茶や花、弓道、蹴鞠、能狂言、日本文化の底流に流れるものを見ているうちに次のようなことに気が付いた。
これらに携わった来た人たちは、日常生活の中で「さり気ない冥想」をしている人たちだったということに。
それは、ヨーガにおける生活のヨーガ、つまりカルマヨーガと同じ精神でもあったと。
文化を比較すると、日本とインドでは驚くほど違う。共通点を見つけることは、至難の業だ。
でも、東洋の精神の中に、さり気ない冥想を見ることが出来ると気が付いた。
特別な意識状態になるのではなく、徹底した日常に生きる魂の営み。
それが、さり気ない冥想の中に表れているのだと、……
「ようやく審査が通りました」
彼の声は明るかった。
その声で私の心にも明るく光がともった。
希望を持つことって、何よりも大切なのではないか。
そんな思いが心をよぎった。
いつでもだれもが、腹に力が入り明るい声で話ができますように!
希望をもっているとき、誰でも容易に腹に力が入り、声は明るくなる。
先が見えず、苦しみぬいていた彼に、ようやくはっきりとした解決の道が示されたのだ。
では、苦難の道を歩んでいるときは、どうしたらいいのか。
何千年も前から、同じ答えが繰り返されている。
それは、
今、やるべきことをただやり続ける。
よくなることを信じ切る。
そして待つ。
苦しくてもつらくても、結果を先取りせず、今あるがままに、……。
ただ、心をそのように調えるのは難しい。
その時は、体から始めよう。
下腹と腰に力を入れて吐き切る。
そういう練習をすることだ。
いつでもどこでも、気が付いた時にそれはできる。
いつでもだれもが、腹に力が入り明るい声で話ができますように!
(前回の続き。)
焦る心があった。どこかに苛立ちがあった。どこかに倦怠感があった。
それは、自我が「自分で何とか出来ることがある」と思い込む部分があったからだ。
本当に物事を進めている主体は、何か、あるいは誰か。
そのように自分に問いかけた時。
焦る心は消えた。苛立ちは消えた。倦怠感は消えた。
願いを捨てて、捨てて、捨てきって。……。
捨てたことも消えてなくなった先に、
願いはいのちを吹き返す。
自我が願っているときには、そのようにしなければならない。
これとは全く別の種類の願いがある。
真実の自己、真実の魂の願いだ。
自我が願うのではない。
願いを実現するのは、だから、自我ではない。
知られざるものだ。それを仮に大いなる魂と呼ぼう。
いつ魂が願いを起こし、いつそれが成就しているのか、自我には、意識されない。
願いを実現するための行動をしていても、自我が行動しているのではない。
ありのままに起きている事象がそこにあることを知るのみである。
それを智慧という。
ただひたすらに道を歩み続ける。
ただ、やるべきことをする。
只管打坐とはこのこと。
バガヴァッドギーターのいうヨーガとは、このこと。
それでいながら何もしていない。
絶対他力の世界だ。
魂の求めるところに従って歩む人と共に歩む。
これが私の願い。
今日、日本で、世界でもかも知れない、自己の魂の求めるところに従って、淡々と歩み続ける人が、極めて少なくなっているように見受けられる。
理由は、いろいろあろう。詮索しても意味がない。
ただそのような事実があることをひしひしと感じるのだ。
私がここまで来たのは何のためだったのか。
「何のため」という目標はなかった。
ただ、魂の求めに応じてきただけだ。
人から見れば、無駄で、役に立たない歩み方かも知れない。
しかし、そのようにしか歩めない不器用な人が、ほかにもいるはずだ。
そういう人たちとともに、不器用でも確信をもって歩めたらと思う。
執着が消えると 感謝が残る。
感謝が残ると、人の喜びが自分の喜びとなる。
どうにもならない不安や、つらいことがあって、そういうことをいくつも体験する中で、ヨーガ、呼吸法、坐禅を繰り返してきたが、古典も読んできたが、行き着くところは、この幸福の方程式につきるようだ。
ヨーガも禅も、言っていることはこれだけのようだ。
バガバッド ギーターもヨーガスートラも丁寧に読むと、このように読める。
ヨーガや禅では、セルフ・トランスフォーメーションが自動的にソーシャルトランスフォーメーションになるのは、この方程式によるもののようだ。