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常のヨーガにあらず 常の名にあらず

ちょっと遊んでみました。
老子「道徳教」をヨーガに当てはめたらどうなるだろう。

人がヨーガだというヨーガは、ヨーガではない。
アーサナだというべきものは、アーサナとは呼ばない。

アーサナだと名付けるものはない。
名前がないところが、ヨーガの始まりだ。

名前を付けると、アーサナは無数にできてくる。

ヨーガで何かしようなどという欲望がなければ、妙なる本質を見るし、
欲望があるとアーサナという形体を見ることになる。

本質と形体は、もともと同じだけれど違って名付けられる。

その同じものを玄という。
しかし、玄というとまた二つに分かれてしまう、だから玄の玄を追求する。
そこに、妙なる本質への入り口がある。

道徳教は、どう書いてある?  
「道の道とすべきは、常の道に非ず。
名の名とすべきは、常の名に非ず。
名無きは天地の始め、名有るは万物の母。
故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の微(きょう)を見る。
その両者は、同じきに出でて而も名を異にする。
同じきをこれ玄と謂い、玄の又玄は衆妙の門なり。

他にどんな書き換えができるかな……。

 

やっぱり呼吸法

3月に折居由加さんに頼まれて、ある掲示板に出すために作った画像です。
さっき電話で話していて、思い出しました。これで書いたことはシンプルですが、最も基本で大事なことだと、今でも考えています。

超越ではなく横超

親鸞の言葉に、「横超(おうちょう)」というのがあります。これは「横ざまに超える」ことで、ふつう言う超越とは意味が違います。親鸞は、超越することを竪超と言っています。

「超越とか堅超は、上へ向かって努力して乗り超える、飛び超える」ことですが、横超は、努力が要りません。
「すぐ隣にある道へ一跨ぎすれば、本当の悟り、自由自在な自分が歩んでいることに気が付く」というようなイメージでしょうか。

私が言おうとすることは、ヨーガの話です。
一所懸命努力して、アーサナ、呼吸法、冥想を日々練習し、生活も正しく調える、そしていつしか幸せな自分、自由自在な自分(カイヴァリヤ)を獲得するというイメージが、ヨーガです。

横超は、そうではありません。
「横ざまに超えたら、アーサナ、呼吸法、冥想、生活の全てが、そのまま自由自在な自分が現前している」ということになります。

これは、ヨーガスートラやハタヨーガプラビティーカなどとは違う道と言えるかもしれません。

バガヴァッドギーターでいう「バクティ」に相当するといっていいでしょう。
「バクティ」は日本語で、信愛、献身と訳されますが、普通に理解されるよりも、もっと徹底的に人生そのもの、命そのもの、存在そのものありようを信じ切った態度です。
これは、苦しんだり悩んだりしていることの全てが、悟っていることそのものの現れだということになるかと思います。

ニローダの意味

焦る心を止めるのは、難しいですね。
でも、もし焦る心が自然に静かに消えれば、そこに努力は必要ありません。

今、焦っています。心の中で「まだ早い。待った方がいい」と感じています。「アンフェアーなことだから、やめた方がいいのではないか」という漠然とした感じがあります。
けれどもなかなか我慢が出来ないものです。

行動を止めようとして努力することを、心の働きを制御するということが出来るでしょう。

一方、呼吸を調えて静かに坐っていたら、自然に焦りが消えていることに気が付くことがあります。行動をしようとする心はいつしか消えているのです。
それを「心の働きを止滅すること」というのではないでしょうか。

今、ヨーガスートラのⅠ-2の「ヨーガとは、心の働きをニローダすることだ」のニローダの二通りの訳を「焦り心」に当てはめて考えてみました。

ニローダを「制御する」という意味と、「止滅する」という意味の二通りの解釈があることは、ヨーガを勉強しているとすぐに知ることになるのですが、初めの人にとって理解が厄介です。

ヨーガスートラをズーッと読んでいくと、ニローダの意味は止滅でなく制御することとして丁寧に解説しているように思えます。

止滅と理解すると、そんな解説は無用に思えます。
止まり滅するには、自我意識は全く必要ありません。自我が、おのずから消えていることだからです。
この場合ですと、これに続く章節は、単なる饒舌なのです。すべて飛び越して、最終章の最後(Ⅳ-34)のカイヴァリヤに直ちに到達していることになります。

止滅すると云う理解は、むしろ禅に近いでしょう。禅にも大量の饒舌があります。饒舌なのにそのような饒舌を否定しているという特徴があります。
それが、禅問答という形で凝縮されている考えていいでしょう。

今は省きますが、禅とヨーガスートラは、兄弟のようなものです。

話を最初に戻しましょう。

姿勢を正し、呼吸を調える時、自然に心が静かになります。
一瞬にして静かになるには、毎日これの実践を繰り返す必要がありますが、これをすることによって人生に得られることは、とても大きいものです。

坐禅・冥想は特別なことではない

特別な意識状態を得るためとか、大きな問題を解決するためとかに、冥想・坐禅をするのもいいかもしれない。

しかし普段のあたりまえにする生活行動のなかに、坐禅・冥想はある。
それに気が付かないだけだ。
それをそのまま深めれるには、特別なことをする必要もない。

姿勢を調える(アーサナ)こと、呼吸を調えること(プラーナーヤーマ)。只そのようにすればいい。

自分が本当に求めることが今あれば、生活を調える。そして只姿勢を調え、呼吸を調える。
それを無理なく気持ちよくできるには、当たり前の生活を調えることだ。

冥想アーサナ

心の問題も体の問題も、悩んでいることは、同じだろう。一番効果のあるやり方は、

セロトニン呼吸法(徹底した丹田呼吸法)をしっかりするうちに冥想になっている。その冥想をすることだ。

さて、アーサナはそのまま冥想でもある。
一つづつのアーサナは、坐法そのもので、そのまま冥想状態になっている。
このようなアーサナをするには、冥想をしばらくしてからアーサナを始めるのがいい。そのとき、アーサナは自然に冥想になっている。

坐ることがもともとアーサナだった。やがて、体をいろいろな形に変えた状態をアーサナというものが生まれた。この意味でいうと、ヨーガのたどった歴史通りに行うと、冥想アーサナとなる。

つまり、呼吸法をして冥想をして体位を変えるアーサナをする。この順番は、なかなかいいものだ。

そのあとの身心は、快適になっている。

ヨーガを教えたらヨーガではなくなる

教えるということには、作意がある。教わるのも作為がある。
ヨーガは、教えたり、教わったりするものではない。

ようやく、このことが身についてきた。
ヨーガ教室では、当然、ティーチャーと生徒がいる。

ティーチャーとか生徒とかは、記号に過ぎない。
そこにいるのは、ヨーガの道を歩む人たちだけだ。
10人いれば、10本の道がある。
そう!
一人一人、自分の道を歩んでいる。
同じ場で、一緒にヨーガをしていても、道が交差しているわけではない。

誰であろうと、私たちは、自分一人だけの道を歩んでいる。
このことを忘れてはならない。


「捨てる」ではなく「消える」

「自我を捨てる」と、いってしまうとそれは、自我の働きだ。
「自我が消える」。
おのずから消える時、やっと、自我は消えている。

おのずから消えているために何が必要か。
ヨーガのアーサナ、呼吸法だ。

意識は、アーサナという行為に、呼吸という行為に向く。
その時、自我は静かに意識の背後に消えて行く。
このことを冥想という。

これが、ヨーガだ。

ヨーガとは自惚れを捨てること

「あなたは誰ですか」
そう聞かれた時、「私は、……。」と、名前や、所属など、いくら言ってもそれは「私」そのものではない。

ならば、手があって、胴があって、など体のすべての部分を足し合わせても「私」そのものではない。

「私は考える」といったところで、考えているのは「私」そのものではない。

これらはみんな、自我の働きだからだ。

ならば「私」は、誰?
自我が、「私」という存在の主役だという自惚れを捨てると、「私」そのものが厳然として存在する。
ヨーガとは、このような、自我を捨てることを言う。

アーサナはヨーガのおもちゃ

アーサナは、シャカリキになって、体を柔らかくする方法ではない。
そんなことをしたら、それはヨーガ アーサナではない。
それは、単なる体操に過ぎない。
アーサナは、筋トレではない。
アーサナは、美容体操ではない。
アーサナは、健康法ではない。
アーサナは、若返り法ではない。
ストレス解消法でもない。
アーサナは、ヨーガのおもちゃだ。

おもちゃなのだから、遊べばいい。アーサナで遊べばいい。

何かワクワクして踊りたくなった時に、踊るように、アーサナをしよう。
ゆったりと気持ちよい呼吸と共に、気持ちよく動かす。

そして、アーサナ(体位)を楽しむ。
無心にアーサナを楽しむ。

それがヨーガのアーサナだ。

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