Monthly Archives: 1月 2015

体と心と真実自己

今日書くことは、わかりにくい内容かと思います。
理屈ではなく、体験されるとき、自然に納得していただけると思います。
体験の時は、人によって異なります。
「そんなものか」と、思ってお読みいただければと思います。

歳をとるにつれて、学んでいくもの。
それは、体と心の使い方。
心は、いつも体から離れてどこにでも飛び回る。
しかし、必ず体にもどる。

体から離れている時の心は、まさに迷える子羊だ。
いい意味でも悪い意味でもない。
無記の迷いだ。

体はどうか。
調子のいいときも、悪いときもある。
健なときも病むときもある。
これまた迷う。
どちらも一筋縄ではいかない。

どちらをも調えて行く手綱が必要である。
手綱を操る主体が、ある。
それこそ真実の自己、真実身体というもの。

ここで言う、自己と身体とは同義語である。
忘れてはならないことは、ここで言う自己は、心ではない。
身体は、体ではない。
さて、手綱を操るには、技術が必要だ。
その技術をヨーガという。
そのために工夫を凝らして歩むことを行という。
どこを歩むのか。
道を歩むのだ。

眠れないときどうする

彼は、昨夜眠れただろうか。
89歳の男性から、「眠れない」という電話があった。

この方とのおつきあいは、10年前のセロトニン呼吸法以来だ。
あの時も、定年後の日々の不安から、睡眠障害で、何度もお話を伺いながら、呼吸法やヨーガでの対策をとったことがある。
この数年はお互いにご無沙汰状態だった。
そして夕べの電話だった。

眠れないので、薬を処方してもらって1ヶ月ほど飲んだが、効いた気がしない。
「眠れる体操を教えてほしい」
そういう問い合わせだった。
背中を伸ばす体操を、「活力呼吸法」のページで教えてあげた。

電話をかけて来るということは、ただそれだけのことではない。
眠れない背景に、様々なこころの、そして体の悩みがあるに違いない。
そのことをしっかりとつかみ取っている必要が、私の中にあるべきだ。

なぜならば、私自身何か一つのことで悩みを持っていることは、その背景に、私自身の様々な要因が絡み合っているからだ。
このことは、だれでも、同じに違いない。

どうしたらいいか、答えはわかっている。
どういう風に心を置いたら眠れるかわかっている。
難しいのは、その方法を自分の中で「術」として、完成させることだ。

姿勢や呼吸法を忘れて自然体

姿勢が調い、呼吸のリズムができたら、何をどうやってという方法は自ずから忘れます。
自分が納得できている時、体のことは気にならなくなり、自然に心も体も自己のうちに落着きます。

そういう時は、心配事、心をざわざわさせること、気になること、それらは静かに消えて、今自分のすることに心も体も坐ります。
坐って歩ける様になるといえばいいでしょう。

それが自然体です。

体が覚えたら、忘れる。
体が忘れていないか、時々確認する。