Category Archives: 無心

達人の心

武道の達人は常に平常心を維持していると考えられます。
けれども我々凡人には平常心を持ちたくないと願っています。

凡人は、いつも特別な心でいたいと願っています。
「いつも喜んでいたい」
「いつも幸福でありたい」
「いつも満足していたい」
「感動しつづけていたい」……。

凡人は、特別な心の状態をいつも願っています。
「悟りたい」とか深い冥想体験を求めたりするのも、特別な心の状態を求めているのと同じです。

凡人はだから、自分の平常心を否定して生きているのかも知れません?

しかし、いつどんなときでも平常心ででいられることは、至難の業だと思います。
このような至難の業を身に着けたいと思います。

平常心が維持されている時には「これが平常心だ」という意識は、静かに消えていると考えられます。
これを別の言い方をすれば無心ということになります。
無心は、特別な心を指しているのではないのです。

何かではなく、何ものでもなく

マントラとか、チャントで唱える言葉は、祈りの言葉のように神仏という信仰の対象に向かって唱えるのではない。
言葉そのものに力があると言うようにも、言われてもいるが、そうではなく、唱えることが、そのまま事象の変化の一つとして溶けてしまう。
つまり、言葉と事象は一味である。

マントラを唱えることは、事象の変化そのものである。
これを真言とも言う。

唱えていると、「何かではなく、何ものでもない」対象もなく、主体もない。そのままあるようにある、そういう状態になる。

片足立ちで倒れなくなる : 三秒間無心術の効果

私は、若い頃から片足立ちが苦手でした。
ヨーガには、片足で立つアーサナは多いのですが、いまいちすきでなかったのです。

一方、加齢とともに片足立ちができなくなると言われています。
そして、片足立ちは、ダイエットになるとか、認知症予防になるとか、ウォーキングの50分の効果があるとか、いろいろ言われています。

最近、「少しはできた方がいいかも」と、思ってやってみました。
ヨーガのアーサナではなくて、普通に片足をちょっと上げるだけを試したのです。
意外なほど簡単にできるので、「アレ!?」と、思いました。
左右どっちの足も、続けて立っていられます。

若い時には、すぐグラグラしたのに、今はそんなことがありません。
どうしてなのか。考えてみました。
足腰の筋力は、昔よりずっと衰えているはずです。
集中力だって、昔のほうがずっとありました。

そして気がついたのは、
ちょっと身体が揺れた時の感覚が以前と違っていることでした。
ちょっとグラっとしただけで、「あっ。倒れる」という感覚が以前はありました。
ところが、今は、倒れる気がしないのです。

自然に、「倒れるはずがない」と、感じている自分がいます。
それで、「ああ、この感覚があるから倒れないんだな」と気が付きました。

昔は、こういう感覚になろうとしてもできなかったのに、と考えてようやく気がついたのは、
三秒間無心術の効果でした。
息を吸って三秒間、吐いて三秒間の止息、これを日常的にやっているだけで心の置き所が、変わってきていたのです。

どうやって人生を創る?

食べ物が体を作っている。
では、人生の歩み方を決めているものは何?

呼吸の仕方ではないだろうか。

どんな呼吸をしているだろうか、普段。
このことが人生の歩み方を決めている。
浅く速い、浅く遅い。
深く速い、深く遅い。
力強い呼吸か、弱弱しい呼吸か。

そしてまた、ものごとに向かう姿勢はどうだろうか。
それは、体の姿勢と関係ないだろうか。
腹、腰に力が入っているか。
前のめりか。反り返っているか。

これらは、自分が生きる世界と向き合う時の姿勢と、関係ないだろうか。
食べ物のことばかりを考えているのは、偏っていないだろうか。
健康健康と、健康にこだわるばかりで、大事なことがおろそかになっていないだろうか。

かすかな焦り いらだち 怒りに気づこう

あるとき、「かすかな焦りを自分は感じているな」と、気がついた。
気がついた途端に、焦りは消滅していた。

焦り、いらだち、怒りはほんのかすかなうちに気がつくと、消えてしまう。
このことがわかってから、私はずいぶん自由に自分をコントロールできるようになった。

誰でも同じなのではないだろうか。

本当にわかる

本当にわかる前は、いくら本を読んでも何もわからない。

わかってから読むと、わかる。

でも、わからないうちに読まなければ、わかるようにならない。

本だけではない。

言葉というものはそういうものだ。

そして「言葉でわかったつもりでいたなあ」と、本当に分かるまでには、永い年月がかかる。

短期修行 無事終了しました

マクロビオティック農家民宿まはな(三重県志摩市阿児町)で、行われた「依りあいマクロビオティック」で、
9月19日から22日までの短期間修行をしました。

朝 6時半から、慕情が丘まで片道約30分行き、呼吸体操、アイウエオ体操、フリフリダンスで一日が始まる。
・食事は、食前に合唱をしてから 7号食(玄米茶碗軽く1膳に、ごま塩のみの食事)
―マクロビオティック、呼吸法、ヨーガ、エコロジカルな健康法などについての講義と座談会。
―ヨーガ、呼吸法、冥想、ワークショップ、タイ式マッサージ など。
・夜は、座談会と合唱後、リラクセーションヨーガの後、就寝。

20日には、近隣の方々が約30名ほど集まり、マクロビオティックとヨーガの体験会。

IMG_20150919_075911DSCN5379

50回ゆっくり噛んで食べる冥想の7号食。

IMGP0382IMGP0359

小島先生と玄朴の講義風景。

DSCN5382IMGP0370

栗の皮をむいたりしながら座談会と講義。

     DSCN54042     DSCN5397

ワークショップとリラクセーションタイム。

IMGP0377IMG_20150919_091222

ごま塩作りも冥想。

IMG_20150918_163712IMG_20150918_164637

7号食の玄米は、大西さん特性の無農薬有機栽培のお米、台風でも倒れず元気に育っています。

 

冥想とは情報を自分の内側から引き出すこと

私たちは、日常ネット、マスコミ、書籍、友人知人から津波のごとく落とし込まれる情報に巻き込まれて、息の詰まる思いをしているのにも気がつきません。
でも、時には、こんな情報から離れたくなる事があります。

そんな時には、外からの情報を遮断し自分の内側からの情報に耳を傾けるといいでしょう。

冥想とは情報を自分の内側から引き出すことをいいます。
静かに目を閉じて、内なる声に耳を傾けよう。
ただ、耳を傾けているだけでいいのです。

 

 

智慧と知識のちがい

人類は、新しい知識を限りなく蓄積していく。
一方、智慧は決して増えない。
なぜなら智慧は、初めから限りなく存在しているものだからだ。
ただ、時に応じて発揮されるだけのことだ。そしてそのときがくるまでは、その姿をみせることはない。
そして発揮された、瞬時に跡形もなく消え失せる。

 

知識は、記録にとどめそのまま使うことが出来る。しかし、智慧は一人一人の人生の中で、求められるまで開示されない。

もちろん、発揮された智慧を文字や言葉あるいは映像として 、残すことは出来る。

しかし、知識とちがうことは、コピーペーストしても、自分の人生の問題解決に繋がらないことだ。ただ、叡智が自己の内から湧き上がるための触媒として使うことは出来る。

 それには私たち自身に課せられる問題に取り組み、解決に向けて真剣な努力をするのみだ。

とはいえ、智慧をよりスムースに開示するための方法はある。 

それが、ヨーガや呼吸法のような身体技法だ。

ヨーガや呼吸法をおこなうことで、無心になれる。無心になる事で、叡智が自己の深奥から湧き上がる通路が開きやすくなると、考えたらいいだろう。

結果や効果を考えないで、ただ行う。

行とは、そうしたものだ。

いくら食べても満足できないとき

ごはんを十分に食べて、おなかがいっぱいなはずなのに、まだ食べたりない。

デザートを食べてもまだ物足りない。
もっと何かないかと、冷蔵庫を開ける。
そんな経験は、誰にでもあると思います。

「食欲が本当に満たされた」と思えることは、至難の技ということもあります。

そんな時どうしたらいいでしょうか。

お腹に意識を置き、ホンの3秒間だけそこにとどめて置くことです。

わずか3秒間意識を体に向けるだけで、「物足りない」という心は、静かになります。
始めのうちは、難しいかもしれません。
でも、何度でも繰り返しているうちに、意識をおなかに向けるということの意味が分ってきます。

1 2