Monthly Archives: 9月 2020

常のヨーガにあらず 常の名にあらず

ちょっと遊んでみました。
老子「道徳教」をヨーガに当てはめたらどうなるだろう。

人がヨーガだというヨーガは、ヨーガではない。
アーサナだというべきものは、アーサナとは呼ばない。

アーサナだと名付けるものはない。
名前がないところが、ヨーガの始まりだ。

名前を付けると、アーサナは無数にできてくる。

ヨーガで何かしようなどという欲望がなければ、妙なる本質を見るし、
欲望があるとアーサナという形体を見ることになる。

本質と形体は、もともと同じだけれど違って名付けられる。

その同じものを玄という。
しかし、玄というとまた二つに分かれてしまう、だから玄の玄を追求する。
そこに、妙なる本質への入り口がある。

道徳教は、どう書いてある?  
「道の道とすべきは、常の道に非ず。
名の名とすべきは、常の名に非ず。
名無きは天地の始め、名有るは万物の母。
故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の微(きょう)を見る。
その両者は、同じきに出でて而も名を異にする。
同じきをこれ玄と謂い、玄の又玄は衆妙の門なり。

他にどんな書き換えができるかな……。

 

こだわらない心

自分の抜け殻にこだわる動物はいない。
蛇でも昆虫でも、抜け殻はもう自分の一部ではないからだ。
ところが、人間は違う。
つい、業績、実績などにこだわってしまう。

他人もそうだ、人の実績を評価する。
それは抜け殻を評価するようなものだ。
評価される方はうれしいし、ありがたい。
資格が得られたり、収入が増えるからだ。

そして、抜け殻を抱えていると、だんだん重くなる。
重さに耐えられなくなる人もいるだろう。
虚しさを感じる人もいるだろう。
でも、どうしてもこだわりを捨てられないのだ。

でも、新しいものを次々に創っていく人は違う。
抜け殻なんて、忘れるからだ。
なぜ?
創ることは、喜びだから……。