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どうしたら攻撃的な言葉を使わないで済むだろうか

今、世の中にはアグレッシブな言葉があふれている。とりわけ、ネットの世界で強く感じる。心の中に潜む攻撃性は、自分ではそれと気が付かないまま、言葉として現れる。
こういう言葉を聞くと私はとても悲しくなる。

新コロナウイルスの問題でも、政治の問題でも、国際問題でも、経済の問題でも、おしなべて攻撃的な言葉であふれかえっている。
「何故なのか」とか「これがどんな結果を産むか」という事よりも、
このような心を胸の内に抱いている私たち人間の存在が、無性に悲しいのだ。

少なくとも、私自身の中にあるそのような心を静めていたい。
そのために、私はヨーガをする。呼吸法をする。
次の5時間ヨーガで取り上げようと考えている、アーナーパーナサチの研究もそうした試みのひとつだ。

 

活力呼吸法

活力呼吸法
素早くやれば、カパーラバティー
ゆっくりやれば、アーナーパーナサチ

カパーラバティーは、脳を活性化させ判断力、行動力を高めると同時に、不安を鎮める効果があることが、よく知られています。しかも、長時間行う必要はありません。
ただ、出来るようになるには、かなり練習が必要です。これを呼吸体操しながら練習すると、同じ効果が楽に得られます。吐くときに一気に会陰から下腹を絞ります。

アーナーパーナーサチは、お釈迦さんの呼吸法としてよく知られています。これを。呼吸を意識しながら静かに呼吸する方法です。これを続けていると、心が穏やかに安定し、過激な言動や人の心を突き刺すような一言が次第に減少していきます。真実の自己に目覚める瞬間が現れるようになります。
ゆっくりと静かに吐いていく呼吸です。この時、活力呼吸法(丹田呼吸法)の要領で、会陰部周辺から下腹にかけて(ムーラーダーラ~スワディシュチターナチャクラ)に心を置いて行うことが効果を高めます。

不安/恐怖をどう受け止めるか

今、私たちは不安/恐怖の状態に陥っているのではないかなと思う。それは、大震災の時ととても似ているような気がする。私の間違いかも知れないが、……。

大震災の時に、自分のブログに書き続けたことがあった。それは「不安や恐れを抱いている時、どんな考え方をしたらいいのか」だった。

その後にまとめて、amazonのkindle版「三秒間無心術で快適人生」を書いた。しばらくの間、ベストセーラになり、今でも少しずつ読まれているようだ。

たぶん今でも、役に立つ内容だと思います。
読んでいただけたら、幸いです。

ヨーガスートラとバガヴァッドギーター

ヨーガスートラは、すでに悟った人がその立場から、苦悩を取り除く技術を教えるものである。
一方、バガヴァッドギーターは、苦悩する人間が、自問自答し苦しむ中から最後に、心の平安を得て、前に向かって歩む人間の姿が描かれている。


勇者アルジュナが私たちの自我だとすると、クリシュナ神は真実自己そのもの、自我と自己との内的対話だという理解で読むことで、私たちの心に深く刻まれるものが、ギーターだということが分かる。

誰でも容易にそのように読めるが、時にはギーターは戦争や殺し合いを擁護する教えだと、誤解する人も出てくる。
このことについて、きちんとした論証をした人物は、ガンディーである。
関心のある方は、不服従非暴力で独立を勝ち取ったガンディーのことを調べるといいだろう。英語ならネットで、彼の論証を読むことが出来るが、日本語だと「ガンジー」(紀伊国屋書店、ルイス・フィッシャー著、1968年)をお読まれといいだろう。

坐禅・冥想は特別なことではない

特別な意識状態を得るためとか、大きな問題を解決するためとかに、冥想・坐禅をするのもいいかもしれない。

しかし普段のあたりまえにする生活行動のなかに、坐禅・冥想はある。
それに気が付かないだけだ。
それをそのまま深めれるには、特別なことをする必要もない。

姿勢を調える(アーサナ)こと、呼吸を調えること(プラーナーヤーマ)。只そのようにすればいい。

自分が本当に求めることが今あれば、生活を調える。そして只姿勢を調え、呼吸を調える。
それを無理なく気持ちよくできるには、当たり前の生活を調えることだ。

冥想アーサナ

心の問題も体の問題も、悩んでいることは、同じだろう。一番効果のあるやり方は、

セロトニン呼吸法(徹底した丹田呼吸法)をしっかりするうちに冥想になっている。その冥想をすることだ。

さて、アーサナはそのまま冥想でもある。
一つづつのアーサナは、坐法そのもので、そのまま冥想状態になっている。
このようなアーサナをするには、冥想をしばらくしてからアーサナを始めるのがいい。そのとき、アーサナは自然に冥想になっている。

坐ることがもともとアーサナだった。やがて、体をいろいろな形に変えた状態をアーサナというものが生まれた。この意味でいうと、ヨーガのたどった歴史通りに行うと、冥想アーサナとなる。

つまり、呼吸法をして冥想をして体位を変えるアーサナをする。この順番は、なかなかいいものだ。

そのあとの身心は、快適になっている。

旅と旅行

旅行をする人は、旅をしない。
旅をする人は、旅行をしない。

観光のさかんな今日、旅人は稀になった。

旅をする人は、居場所を探している。
人は自分の居場所がどこにもないということにやがて気が付く。
このように悟った人は、「居場所がない」というその場所に、居場所があることを知る。

世界が、宇宙が丸ごと「私の居場所なんだ」と、知る。

ヨーガを教えたらヨーガではなくなる

教えるということには、作意がある。教わるのも作為がある。
ヨーガは、教えたり、教わったりするものではない。

ようやく、このことが身についてきた。
ヨーガ教室では、当然、ティーチャーと生徒がいる。

ティーチャーとか生徒とかは、記号に過ぎない。
そこにいるのは、ヨーガの道を歩む人たちだけだ。
10人いれば、10本の道がある。
そう!
一人一人、自分の道を歩んでいる。
同じ場で、一緒にヨーガをしていても、道が交差しているわけではない。

誰であろうと、私たちは、自分一人だけの道を歩んでいる。
このことを忘れてはならない。


「捨てる」ではなく「消える」

「自我を捨てる」と、いってしまうとそれは、自我の働きだ。
「自我が消える」。
おのずから消える時、やっと、自我は消えている。

おのずから消えているために何が必要か。
ヨーガのアーサナ、呼吸法だ。

意識は、アーサナという行為に、呼吸という行為に向く。
その時、自我は静かに意識の背後に消えて行く。
このことを冥想という。

これが、ヨーガだ。

ヨーガとは自惚れを捨てること

「あなたは誰ですか」
そう聞かれた時、「私は、……。」と、名前や、所属など、いくら言ってもそれは「私」そのものではない。

ならば、手があって、胴があって、など体のすべての部分を足し合わせても「私」そのものではない。

「私は考える」といったところで、考えているのは「私」そのものではない。

これらはみんな、自我の働きだからだ。

ならば「私」は、誰?
自我が、「私」という存在の主役だという自惚れを捨てると、「私」そのものが厳然として存在する。
ヨーガとは、このような、自我を捨てることを言う。

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