「それ」はいつでもそこにある

空なる本質、プルシャ、どう呼ぼうと、「それ」は、いつでもそこにある。
ことさら冥想をして、サマーディーからカイヴァルヤの境地を特別に体験するのではなく、
生活という冥想が、カイヴァルヤそのものをもたらしている。

私は、冥想をするが、それは当たり前になっている。
だから、生活が冥想なのだということが分かってきたのかもしれない。
カルマヨーガの生活は、永い年月の間に、ゆっくりと熟成していくもののようだ。

いのちというもののありようなのかもしれない。