Category Archives: ヨーガ

魂の求め

「私が何をやっても、それはヨーガである。」というとき、
それは「私の魂が求めていること」に、素直に従っているときだ。

心の奥底から湧き上がってくる魂の求めていることだ。
「やるぞ」と、心に力を入れてやることではない。

それは、自然でとても楽な私の活動である。
魂という言葉を使いたくなければ、命そのもの。存在そのものの声だ。

静寂で平和な心

ヨーガや呼吸法をしていると、すーっとあたりが静かになり、いつの間にか静寂で平和な心に浸されている自分に気がつく。

普段の何気ない生活行動の中でも、しばしばこのような心に包まれる。
そういう時間が最近増えて来た。

この静寂で平和な心に包まれているとき、今朝、ふっと気がついた。
それは、「リラックスとか癒やしとか言うこととこれは、まったく異質なものだ」ということである。

まだしっかり説明できないのだが、リラックスとか癒やしとかには、「自分がリラックスしている」とか「自分が癒された」という自我意識が明確にある。

ところが、静寂で平和な心に浸されているときは、「辺り一面と溶け合った自分がいる。辺り一面が静寂で平和だからそれと共鳴して自分も静寂で平和である」あるいは、「辺り一面と自分とが同時に静寂で平和なのだ」という心のあり方である。

自分という言葉を使ったが、強烈に自己を主張する自我意識ではなく、いつも世界と共鳴している自分である。
このようなことをなんとなく感じ始めたのは、大学院のヨーガコースで、自分は立って、冥想を指導しているときだった。
呼吸の仕方、心の置き方を説明していながら、
いきなり、静寂で平和な世界に立っている自分がここにいたのだ。
それから、同じようなことがしばしばある中で、だんだん日常の生活行動の間にもこの感覚が浸透してきた。

ॐ शान्तिः शान्तिः  शान्तिः |
OM shaantih shaantih shaantih.

資格ってなんだろう

昨日、「このヨーガコースを終了したらその人に、インストラクターの資格を与えますか」と、問われました。

「うーーーーーん」私は答えに窮した。
資格とか、証書を欲しいと言われることがある。そして年単位で何回も講義と実習を受けた人に、そのようなものを書いてあげることがある。
一番最初はずいぶん昔のことだが「放送大学で『地域の公民館などで行われている教室に一定期間参加した人には、体育の単位の習得を認められる』とか言うことで、頼まれて書いた。
整体とかカイロなどの治療師をしている人に頼まれて、書くこともある。仕事に役立つらしい。

紙切れだけど、それがなにかの役に立てばと思う。
世の中には、ヨーガ教室ばかりでなく、いろいろな資格がある。
学校を卒業したとか、医者とかの資格など数えだしたらキリがない。
それらは、みんな人に認められるから、欲しいのだと思う。

そういうものは「あってもなくてもいい」と本当に思うまで何十年かかったろうか、ずいぶん年月が必要だったように思う。

本当の師(グル)Ⅲ

己こそ、己の師
他のどこに師がいようか。

誰を師としようと、大勢の師を得て、学ぼうと、
人生の眞、本来の面目は唯一つ、
それをつかむものは、己しかいない。
だからといって、掴み得たものは己でもないし、己のものでもない。
それは、ものではないからだ。

己において、それは現成している。
現成させている何かを仮に師と呼ぶに過ぎない。

 

 

本当の師(グル)Ⅰ

私は山村に住んでいます。
農家のおっさん、おばさんが、農業という自分の行う営みに、深く意味を見出し、そこを自分の歩むべき道だと自覚しひたすら歩むとしたら、そのおっさん、おばさんは、私たちにとって、師と呼ぶべき人物でしょう。
そういうおっさんおばさんが、本当のヨーガのグルでありましょう。
町に行けば、町のおっさんおばさんで、そよのように自分の営みを歩むべき道を自覚していれば、師でありましょう。

私は、ヨーガというものをそのように考えています。
皆がそのようになれるように、基礎としてのヨーガを伝えるのが私に与えられたミッションだと、考えています。

 

24時間ヨーガ

ヨーガは、アーサナをしているときだけがヨーガではない。

呼吸法をしているときだけがヨーガではない。

冥想しているときだけがヨーガではない。

ヨーガは、24時間すべてが、ヨーガタイムだ。

これをバクティヨガと言う。

これは、禅でもある。

高度なアーサナができたり、たくさんの呼吸法を覚える必要はない

アーサナの種類は、現在どのくらいあるだろうか。ありすぎて数える気にもならない。
しかも、ヨーガのやり方や「◯◯ヨーガ」と名乗る種類も次から次と生まれている。
そして、呼吸法や冥想法もたくさんあるし、昔から行われてきたものなのに新しい名前がついているものも次々と制作されている。

じゃあ、自分はどれをどの位したらいいのか。
どれが優れた方法で、どれが劣った方法なのか。
科学的に証明されたといっても、自分にとっていい方法だと証明されているわけではない。
すべてをすべての組み合わせで、試してみるしかない。
そんなことは一生かかっても、終わらないだろう。

自分が、自分の人生において何を求めているのか。
そのことを明確に意識しながら、ヨーガの中に答えを求めていると、自ずから、ピタッとするものに出会う。
自分の歩む道を、それとなく差し示してくれる師に出会う。

それは、優れて有名な師とは限らない。
あらゆる人、あらゆる出会いが自分の師となりうるからだ。
そして、その道を歩むために必要な道具としての、アーサナや、呼吸法、冥想法は、驚くほど簡単で、シンブルなものである。
それを心の求めるままに丁寧に繰り返し実施し続けることである。

「世界はアーシュラム」ってどういうことですか?

ある人に聞かれました。私は、次のように考えています。

アーシュラムとは、道場のことですね。
たとえば、ヨーガ アーシュラムといえば、ヨーガの道場のこと言うのはご存知のとおりです。
修行者の住む庵を指したり、自分の家を指すこともあります。たとえば、インドを独立に導いたガンディーは、サーバルマティー アーシュラムを拠点に活動をしたことで有名です。このアーシュラムで彼はカースト制を否定しすべての人間は平等だという考えを徹底して実践したことで有名です。

話を元に戻すと、アーシュラムとは道場のことです。
この意味で、自分が生きている世界そのものが、自分にとってアーシュラムではないかと思うのです。
以前は、自分の体こそが自分を真に自分たらしめるアーシュラムだという使い方もしたことがあります。
だからヨーガをする、だから生活における禅の探求ということがあるのだと、そんな風に考えていました。

それが間違っていたというのではなく、もっと広く、真実の自己を求める者たちが生きているこの世界が、自分を深め、人生を真の人生たらしめる場、家という意味で、アーシュラムという言葉を使ってもいいなあと、この頃考えているのです。

ヨーガと冥想はどう違うの?

「ヨーガと冥想とは、どう違うのですか」という質問を受けました。

冥想は、心を調えるための技術です。
ヨーガは、人生そのものです。
呼吸法も、アーサナも技術ですね。

ヨーガは、技術ではありません。
ヨーガは、私たち一人ひとりの中にあります。
一人ひとりの人生の中にあります。
人生そのものと言っていいでしょう。

この意味をわかっていただけることを目指して、ヨーガを広める活動をしています。

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