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朝起きたときの呼吸法とヨーガ

私は、朝起きてすぐ呼吸法とヨーガをします。
「やっぱり呼吸法の達人はちがいますね」などと言われることがあります。
朝から目がパッチリ覚めて、元気爽快だと思っていらっしゃるのです。

そうじゃないんです。

まず、動きたくないのが本音の時がとて多も多いです。

布団のなかでぐずぐずしていると、いつの間にか眠っていて、2時間もあとに目が覚めて「間に合わない。ああ、午前の予定はキャンセルだ」などと言うことも昔はありました。
冬はまた、大変です。
枕元の湿ったタオルがかちかちに凍っているときもあります。
起きるのがつらいので暖房のスイッチを入れてまた布団に潜り込みます。
イヤなことや難しい問題が頭の中をぐるぐる駆け巡って、いつまでも不愉快な気分のまま起き上がらない。なんていうこともあります。

起きるのがつらい時はどうする?

一番いいのは、起きようとしないこと。
自分に取って、一番いいタイミングに、身体が動き始まると、信じて。
二度寝でも、三度寝でも、覚悟を決めて。

どうしても起きなければと思ったら、

床の中で、背伸びをする。二三回。
すこし目が覚め始めたら、手のひらを握ったり開いたりして見る。
少しずつ大きな筋肉をうごかしはじめていると、
気が付いたら起きています。

カパラバティーと丹田呼吸法

よく知られとているように、カバラパティ(कपालभाति)は、瞬間的にした腹を絞って吐く呼吸を10回から数十回連続して繰り返す呼吸法です。
要は、丹田呼吸法を素早く繰り返す方法といっていいでしょう。

ヨーガのマニアのような人は、強く、早く、かなり長時間続ける人がいます。
しかし、私たちのように、心と体を調整しながら、自分のスピリチュアリティーを豊かにして、快適な人生を求めるなら、自分にできる早さと強さで、数十秒から、数分を毎日続けることが、とても有効だと思います。

カバーラバティではありませんが、体の動きに合わせて素早く下腹を絞る呼吸法を10分間程度行うのは、継続できるし、効果もあるのでお勧めします。
youtubeから、呼吸体操 (Short break Breathing)をできるようにしています。
玄朴プロトコルでは、アーサナを始める準備体操として必ず行っているものです。

 

 

言葉の精油

昔、「言葉の精油」と題して、カード―幾枚も作り、配布したことがあります。
例えば、

言葉の精油 2
いのちとは
いのちとは よろこびの波動
よろこびの波動は世界を包む
宇宙を包む
あなたを包む

このような言葉を少し復活しようかな……。

バクティとは絶対的信愛

バクティヨーガなど、バクティという言葉が使われますが、
そういう場合、熱烈信仰とか、かなり激しい心情に基づいて、信愛することのように、理解されがちです。

しかし、「私」を私たらしめる存在の根源に対して絶対的に信じ切っている場合、心は落ち着いていて、静かに存在の根源を味わう=一体となっています。

それ以上でも、以下でもありません。

なお、存在の根源は信仰を持っている人にとっては神、無信仰の人には命という風に理解していいでしょう。

シャバアーサナ

シャバアーサナは、リラクセーション法ではありません。
でも、難しいので普通は、リラクセーション法として利用しています。
僕がインストラクションするときもそうです。

本当のシャバ―アーサナを説明するときは次のように言っています。
シャバアーサナの意味は、屍のポーズといいますが、まさに屍になることをシャバアーサナといいます。

つまり、死体になりきることです。今この瞬間、屍になってみてください。
屍は「無」の状態ではありません。「空」でもありません。

生きていて、そんなことできますか。だから、極限の難しさがあるのです。
ラーマナ マハリシの体験が 「南インドの冥想」(おおえ まさのり訳、編  大陸書房)の23ページにに書いてあります。以下に引用してみましょう。


1896年7月、マハリシが待ち望んでいた精神的体験が、突然彼を襲った。ラマナは家の一階で人りで座っていた。彼はいつもと同じく健康であったけれども、そのとき突然まごうことなき死の恐怖が襲ってきた。彼は今にも死んでしまいそうに感じた。しかしなぜだかわからないけれども、それに打ち負かされはしなかった。彼は穏やかに、今何をなすべきかを自己に問いかけた。
「今、死がやってきた。それはどういうことなのだろうか? 死につつあるものは何なのだろうか? 死ぬのはこの肉体だ。」
彼はそれから四肢を伸ばしたまま横になり、口を堅く閉じて呼吸を止め、外形上はあたかも死骸が横たわっているかのようになってしまった。いったいこの時マハリシの身には何が起こったのだろうか。マハリシはそのときこのように考えていたという。
「ああ、この肉体が私なのだろうか? 周りは静かでひっそりとしている。だが私は私の個性が力いっぱい溢れているのを感じるし、私の内部にある、肉体とは別の「私」の声を聞き取ることさえできる。従って私は肉体というものを超越した意識なのだ。肉体は死ぬけれども、それを超越しているこの意識は決して死ぬことはない。つまり私とは不死の意識なのだ。」
後年マハリシがこの体験を帰依者たちに語ったとき、それはともすれば一つの論理的思考の過程であったかのように解釈された。しかし彼はそうでなかったことを注意深く説明している。その「私とは意識である」という理解は突然に閃いたのである。「私」とは極めてリアルで、また唯一のリアルな実在であった。こうしたことを彼はすべて直感的に悟ったのである。

引用は、以上です。シャバアーサナとは、このような体験を促すものと考えると、シャバアーサナ(屍のポーズ)と呼ばれる意味が分かると思います。
「南インドの冥想」ほど、ヨーガの本質を分かり易く書いた本はないでしょう。
ぜひ読んでいただきたい本のトップに入ると思いま。

 

マハーバーラタの心 ヨーガの心

マハーバーラタの心
ヨーガの心
それは 
  信念をもって生きよ!
  自分の目標を正しく見極めて、
それに向かって生き抜け
  必ず実現する!

マハーバーラタの英訳本( Kisari Mohan Ganguli, tr. 訳)で、yogaという単語が出てくる部分を調べている。まだ途中だが、yogaという言葉は「様々な登場人物の悩みに答える部分の中に多く出てくる」、そこからにじみ出てくるコンセプトが、上記の言葉だ。

「本当に行き詰まった」「何もかも自信が持てなくなった」
そういう時、社会的立場や環境から、いったん「自分は、本当は何を求め、何をしようとしているのか」に、焦点を当ててみよう。

自分の本心に焦点を当てて、自分中から出てくる答えを読み解くとき、不思議な確信を得る。その確信が、上記の言葉の中の「心」の意味だ。
Yogaの心は、他の何物でもなく、まさにこれなのだとわかる。

未知の力

道端や庭に生い茂る雑草。
それがどんな植物かなんて、考えたこともない。
当然、写真を撮ることなど思いもつかないできた。

最近、古い薬草図鑑をみていて、
雑草の中には、とんでもないすごい薬効のあるやつがたくさんいると知った。
いくら摘んでも、毎年花が咲き、実をまき散らす。
困ったものだと思っている、そういう雑草に、すごい薬効があったのだ。

日常生活の何気ない出来事の中に、
特別なことは何もないような日頃のおしゃべりの中に、
これといった取り柄があると思えないような自分のなかに、
誰かの役に立ちたいと思っても、なかなかできない自分の中に、
未知の力が眠っているのかもしれない。

雑草の中に未知の力が眠っているように…!

インストラクター : 人に教えるのではなく

ヨーガのアーサナ、呼吸法、冥想を教えているとき、また、講義をしているとき、

本当は、教えているのではない。

永年、ヨーガをしていてつくづく知る。

インストラクターは、自分に教え、自分言い聞かせるものだと、。

教えているつもりでいる時は、本当に教えていないのだ。

教えていないときに、真実は自然に伝わる。

どうもそういうものだ。

 

いのちとは喜びの波動

波動は、体と心の共鳴。

いのちとは、喜びの波動。

冥想で、内なる世界の深淵にたどり着くと、内なる世界から湧き上がるなにものかが自我に接触する。

その時自我は、静かな喜びの波動を感じる。

その喜びの中から、新しい何者かが実現していく。

これは、思考、つまプラス思考というものではなく、思考を超えた、命の波動だ。

 

 

 

生きがいがわからなくなったとき

こんな質問がありました。
「私は、生きがいについて、気にしたことがありませんでした。生きがいは、人生の目標のようなものと思っていたのですが、いつのころからか、生きがいがはっきりしなくなっていました。
生きがいをはっきり感じられるようなアドバイスをいただけませんか」

こういう質問を若い方から、時々受けます。
こういう時、私は次のように答えます。
「生きがいは、環境の変化によって変わってしまうことがありますが、身心の成長の過程で変化するものです。
内なる自己が成長することから『生きがい』がわからなくなるのは、当然のことです。
そういう時は、潜在意識から、新しい『生きがい』が現れてくるのを待っていればいいのです。

易経の水天需(すいてんじゅ)という卦があります。
この中に「雲の天に上るは需なり。君子もって飲食宴楽す」という言葉があります。
この意味は「今か今かと雨を待っているときに、雲が厚くなってきました。もうじき、降り始めるのだから、あせらずに、ごちそうでも食べながら待(需 )っていればあなたの願いはかなえられるでしょう」です。

「これは、一所懸命生きている人の自分の立場を正しく理解している人の待ち方です」という意味が付け加えられています。

 

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