本当の師(グル)Ⅲ
己こそ、己の師
他のどこに師がいようか。
誰を師としようと、大勢の師を得て、学ぼうと、
人生の眞、本来の面目は唯一つ、
それをつかむものは、己しかいない。
だからといって、掴み得たものは己でもないし、己のものでもない。
それは、ものではないからだ。
己において、それは現成している。
現成させている何かを仮に師と呼ぶに過ぎない。
己こそ、己の師
他のどこに師がいようか。
誰を師としようと、大勢の師を得て、学ぼうと、
人生の眞、本来の面目は唯一つ、
それをつかむものは、己しかいない。
だからといって、掴み得たものは己でもないし、己のものでもない。
それは、ものではないからだ。
己において、それは現成している。
現成させている何かを仮に師と呼ぶに過ぎない。
人の師(グル)は、人ではない。
人生が、師。
時間が、師。
そのほかに師はいない。
私は山村に住んでいます。
農家のおっさん、おばさんが、農業という自分の行う営みに、深く意味を見出し、そこを自分の歩むべき道だと自覚しひたすら歩むとしたら、そのおっさん、おばさんは、私たちにとって、師と呼ぶべき人物でしょう。
そういうおっさんおばさんが、本当のヨーガのグルでありましょう。
町に行けば、町のおっさんおばさんで、そよのように自分の営みを歩むべき道を自覚していれば、師でありましょう。
私は、ヨーガというものをそのように考えています。
皆がそのようになれるように、基礎としてのヨーガを伝えるのが私に与えられたミッションだと、考えています。
マントラとか、チャントで唱える言葉は、祈りの言葉のように神仏という信仰の対象に向かって唱えるのではない。
言葉そのものに力があると言うようにも、言われてもいるが、そうではなく、唱えることが、そのまま事象の変化の一つとして溶けてしまう。
つまり、言葉と事象は一味である。
マントラを唱えることは、事象の変化そのものである。
これを真言とも言う。
唱えていると、「何かではなく、何ものでもない」対象もなく、主体もない。そのままあるようにある、そういう状態になる。
ヨーガは、アーサナをしているときだけがヨーガではない。
呼吸法をしているときだけがヨーガではない。
冥想しているときだけがヨーガではない。
ヨーガは、24時間すべてが、ヨーガタイムだ。
これをバクティヨガと言う。
これは、禅でもある。
アーサナの種類は、現在どのくらいあるだろうか。ありすぎて数える気にもならない。
しかも、ヨーガのやり方や「◯◯ヨーガ」と名乗る種類も次から次と生まれている。
そして、呼吸法や冥想法もたくさんあるし、昔から行われてきたものなのに新しい名前がついているものも次々と制作されている。
じゃあ、自分はどれをどの位したらいいのか。
どれが優れた方法で、どれが劣った方法なのか。
科学的に証明されたといっても、自分にとっていい方法だと証明されているわけではない。
すべてをすべての組み合わせで、試してみるしかない。
そんなことは一生かかっても、終わらないだろう。
自分が、自分の人生において何を求めているのか。
そのことを明確に意識しながら、ヨーガの中に答えを求めていると、自ずから、ピタッとするものに出会う。
自分の歩む道を、それとなく差し示してくれる師に出会う。
それは、優れて有名な師とは限らない。
あらゆる人、あらゆる出会いが自分の師となりうるからだ。
そして、その道を歩むために必要な道具としての、アーサナや、呼吸法、冥想法は、驚くほど簡単で、シンブルなものである。
それを心の求めるままに丁寧に繰り返し実施し続けることである。
ある人に聞かれました。私は、次のように考えています。
アーシュラムとは、道場のことですね。
たとえば、ヨーガ アーシュラムといえば、ヨーガの道場のこと言うのはご存知のとおりです。
修行者の住む庵を指したり、自分の家を指すこともあります。たとえば、インドを独立に導いたガンディーは、サーバルマティー アーシュラムを拠点に活動をしたことで有名です。このアーシュラムで彼はカースト制を否定しすべての人間は平等だという考えを徹底して実践したことで有名です。
話を元に戻すと、アーシュラムとは道場のことです。
この意味で、自分が生きている世界そのものが、自分にとってアーシュラムではないかと思うのです。
以前は、自分の体こそが自分を真に自分たらしめるアーシュラムだという使い方もしたことがあります。
だからヨーガをする、だから生活における禅の探求ということがあるのだと、そんな風に考えていました。
それが間違っていたというのではなく、もっと広く、真実の自己を求める者たちが生きているこの世界が、自分を深め、人生を真の人生たらしめる場、家という意味で、アーシュラムという言葉を使ってもいいなあと、この頃考えているのです。
「ヨーガと冥想とは、どう違うのですか」という質問を受けました。
冥想は、心を調えるための技術です。
ヨーガは、人生そのものです。
呼吸法も、アーサナも技術ですね。
ヨーガは、技術ではありません。
ヨーガは、私たち一人ひとりの中にあります。
一人ひとりの人生の中にあります。
人生そのものと言っていいでしょう。
この意味をわかっていただけることを目指して、ヨーガを広める活動をしています。
ある健康法のセミナーでの話。
幾人かの参加者が、「私は、百歳まで元気に生きる。それを目標にしている」とか、
「この健康法で百歳以上生きるのだ」といっていました。
気合を入れてそれに取り組むのはいいけれども、私は違和を感じました。私は、そのように考えたことがないからです。
19歳の時に、若宮師に出会ったのですが、
そのとき師は「一番面白い勉強は、「自分とは何か」を勉強することだと言いました。
誘われるままに東京の郊外にある師の家に行くと、
ボロボロの三軒長屋の一室でした。
八畳間に古びたじゅうたんが一枚ひいてありました。
天井からは、糸が十数本垂れていて、背丈あたりの高さのところでまとめてあります。
雨が降ると、その下に洗面器を置いて、雨漏りの水滴を集めていたのです。
そこに悠然と坐っている師の姿に、感動しました。
資金を提供する人がいて、数年後広い家に移り、集まっていた若者たちと共同生活をしました。
その生活は、掃除やマキ割りなどの日常生活と、ヨーガや坐禅、食事は生野菜をドロドロにしたものを食べてから、玄米におかずというものでした。
これらのことは、人生を深めるための道の一つであって、健康法だとは、教わりませんでした。
私も、健康法だとは考えたことがありませんでした。
ヨーガや坐禅、食事は、今日の今、快適な心と体になって、やらなければならないことを気持ちよくできるために、必要なことです。
でも、それで健康を維持するとか、そんなことは考えません。
私がヨーガや呼吸法などで、伝えていることは、健康法ではありません。
「充実し、意味ある人生を送るためには、これがとりわけ優れて、役に立つ方法だ」
ということを伝えたいと考えているのです。
私は、若い頃から片足立ちが苦手でした。
ヨーガには、片足で立つアーサナは多いのですが、いまいちすきでなかったのです。
一方、加齢とともに片足立ちができなくなると言われています。
そして、片足立ちは、ダイエットになるとか、認知症予防になるとか、ウォーキングの50分の効果があるとか、いろいろ言われています。
最近、「少しはできた方がいいかも」と、思ってやってみました。
ヨーガのアーサナではなくて、普通に片足をちょっと上げるだけを試したのです。
意外なほど簡単にできるので、「アレ!?」と、思いました。
左右どっちの足も、続けて立っていられます。
若い時には、すぐグラグラしたのに、今はそんなことがありません。
どうしてなのか。考えてみました。
足腰の筋力は、昔よりずっと衰えているはずです。
集中力だって、昔のほうがずっとありました。
そして気がついたのは、
ちょっと身体が揺れた時の感覚が以前と違っていることでした。
ちょっとグラっとしただけで、「あっ。倒れる」という感覚が以前はありました。
ところが、今は、倒れる気がしないのです。
自然に、「倒れるはずがない」と、感じている自分がいます。
それで、「ああ、この感覚があるから倒れないんだな」と気が付きました。
昔は、こういう感覚になろうとしてもできなかったのに、と考えてようやく気がついたのは、
三秒間無心術の効果でした。
息を吸って三秒間、吐いて三秒間の止息、これを日常的にやっているだけで心の置き所が、変わってきていたのです。