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湯治ヨーガ

今年は、温泉に入ったりヨーガを指導したりということが2回ほどあった。
気にもとめずに居たのだけれども今夜、自宅でゆったりと風呂に浸かりながら、一つ思いついた。

日本には、あんまというのはあるが、アーユルヴェーダやアロマオイルのマッサージのようなものは、なかったんじゃないか。
昔から、湯治と言うのがある。
これで、多くの病気が治っていた。
これが、日本の医療の本質ではないか。

マッサージだけでなく、色々な手技がある。
針灸というのもある。
こうした手技は、誰かに施術してもらわないと成り立たない。

ところが、湯治は、一人ゆったりと湯舟につかるだけだ。
砂風呂なんて言うのも同じだろう。
温泉では、湯舟に浸りながら、のんびりとおしゃべりをしてもいい。

ヨーガと共通するのは、一人でできるということだ。
アーサナを一通り覚えてしまえば、難しい理論も、技術も習得する必要はない。

現代は、湯治に何週間、何ヶ月を使うという心のゆとりがない。
その分をヨーガと組み合わせれば、単日時で出来る。

来年は、こうしたイベントをしようかな。

わかる

わかる。

答えが分かる。

おのずとわかる。

感じるのでも、知るのでも、把握するのでもなく、わかる。
分かった通りに行えばいい。

ただわかる。
それ以上でもなく、それ以下でもない。
現成する。
何かが現成する。
それをわかるという。

それは、どこからかわからない、どこかから意識の上にやってくる。
あらゆる問題の答えは、いつでもそこにある。
そこにあるけれども、そこというところはない。

自分に降りかかるすべての問題の答えが、そこにある。

でも、答えのすべてが今、現成することはない。

自分にとって今、必要な答えだけが、必要な瞬間に現れる。
その瞬間のことをという。
に任せて大安心をして、今、行うべきことを唯行っていればいい。

に応じて動き。
に応じて語り。
に応じて休む。
に応じて食べる。

それがわかるということ。
わかるためには、感性を鋭くしていなければならない。
大安心をして、感性に任せる。
そのために、呼吸術がある、そのためにヨーガがある。

アーサナや呼吸法やらをたくさん覚える必要はない

私がつくづく思うことは「自分が、魂が求めるままに、行ってきたこと、気が付いたこと、方法、そういうことは、ヨーガの古典を読んでいると、どこかに書いてある」ことだ。

修業時代から今日まで、あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、時にはせき止められたり、滝となって落ちたり、そういう中で、魂が学んで来たことは、先哲もまた、そのように学んだのかもしれない。

そして、誰もがそのように学ぶのかもしれない。

だから逆に、高度な技術は役に立たない。
ハタヨーガプラビティーカの一節ずつ、読み進むうちにそのように思った。
「古典には、自分の人生にとって、魂の喜びにとって、無駄な言葉や技術もたくさん入っている」と。

スマホやパソコンの中には、たくさんのソフトウエアー、最近はやりの言葉でいえばアプリが入っている。たいていの人は、その中のいくつか、自分が使ういくつかしか動かさない。そのほかのアプリは自分にとって、無駄以外の何物でもない。

ヨーガの技術も同じだ。
魂の求めるものは、そんなに多くはない。

次々と新しい、アーサナや呼吸法、浄化法、冥想法を覚えたり、まして人に教えるなどということは、およそ意味がない。
なぜなら、一人一人がそれぞれに魂の求めに従っていれば、それぞれ自然にそういう技を使っているものだから。

本を読めることの幸不幸

「お前は、本を読んてはいけない」と師に言われたことがある。
20代前半だった。
「傲慢になるだけだ」
ということだった。
それで、2年半ぐらい禁止状態が続いた。

掃除をして、ヨーガをして、坐禅をして、作務をして、……。
それしかしなかった。
そのころ、私が何をしても、何も言っても「違う」と、師に否定された。

無我夢中でもがいた。
そこでつかんだことは「最も大切な物事の本質は、自己の外から得られるものではない」ということだった。
「大切なことは、もともと自分は知っているということ」
それは、どんな人においても同じ、文字で書いてあることは、そういうことに過ぎない。

智慧というものは、そういうものだ。

人生を豊かにするための読書というものは、自分がすでに分かっていることの再確認をするということなのだ。

このことが分からないで読書すると、傲慢さの上塗りを重ねているだけとなってしまう。
つまり、智慧ではなく、知識でしかなくなってしまう。
知識をたくさん蓄えると、自分が偉くなったような気がして、それを人にも言いたくなってしまう。

昔以上に、今書物が充実している。素晴らしい言葉がたくさんある。
それが、自分の傲慢さの拡大を増長していないか。
よくよく、反省しながら読書をして欲しい。
今の若い人たちは、私のあのころ以上に、豊かな知識に恵まれているのだから……。

そこにはヨーガはない

ヨーガをしている写真を見ながら、はっと気が付きました。
「そこにはヨーガはない」と。

「ヨーガなんてどこにもないんだ」と、気が付かなければいけなかったのです。
今ヨーガをしている。でも、それはヨーガではない。
だからヨーガなんだ。

そういうことに気が付かなければいけなかったのです。

今ヨーガの本を書いているのですが、書いていながらヨーガの本ではないということに気が付いていないといけなかったのです。

ヨーガをしてはいけません。
ヨーガをしなければそれがヨーガとなります。

変なこと、理解しがたいことを今書いたように思われるかと思います。
これが、パタンジャリのヨーガスートラの冒頭にある。
「ヨーガとは、心の働きを止めることである( योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः )」のいうところでしょう。

意識は明晰でありながら、働いていない。
無心。

これは、人に伝えるものではないし、伝えられるものでもない。
教えたり、教えられたり、そんなことは、土台無理なのです。

こんな風に書くと、自分のヨーガ教室ばかりか、世界中のヨーガ教室は、ヨーガ教室ではなくなります。
そこに、ヨーガの楽しさがあるんだなと思います。

 

禅・ヨーガで人間力の涵養

「ここのようなサワラ並木は世界に一つしかない」
諏訪湖畔にある小坂観音院の中島住職は、いう。
今月も、28日の朝、6時からここでヨーガをした。
青空ヨーガのはずだったが、今日はあいにく雨で、庫裏で行った。

ヨーガのあと聞こえてくる雨音に耳を傾けていると、涵養というコトバが思いだされた。
雨水は、静かに大地に染み込みやがて、泉から湧き出、集まって大河となり海へ注がれる。
あるいは、草木を養い育てる。

ここのサワラもそのようにして、400年、500年かけて育ち、巨木となったにちがいない。
住職の話では、今日、このようなサワラ並木を持つ寺院は、管理が大変なこともあり駐車場にするなどで多くが伐採されて、ほとんど残っていないとのことである。

いま苗を植えて同じ並木を作ろうとすると、400年、500年かかるのに、簡単に伐採してしまう風潮を住職は嘆いているのだ。

植物を力づくで育てることは出来ない。植物が意図して育つわけでもない。
彼らは、今の生を十全にまっとうしているだけだ。

涵養というコトバの意味は、このように自然の恵みをいただきながら、精一杯生きるうちに、いつの間にか育てられて今の自分に到達することに違いない。

人が、このような道を歩むことをヨーガと言い、禅という。
私が提唱している禅、ヨーガとはこういうものだ。

筑波大学大学院共通科目(GGEC)のサイトに「本学の大学院生が多くの科目を履修し,奥深い思想や哲学を感じ取って,自己の専門性の上に豊かな教養と倫理観を身につけ,バランスのとれた研究者や高度専門職業人となるべき「人間力の涵養」に役立てるよう期待しています。」とある。
ヨーガは、この目的にぴったりな人間の営みだと、私には思えてならないのだ。

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「禅をする」「ヨーガをする」それは自分探しの営み

「禅をする」「ヨーガをする」それは自分探しの営み。

夜中、寝ているときにこの言葉が頭のなかに現れていた。
目を覚まして、忘れないうちにとメモを書いた。

目を覚まして読むと、いつも自分の中にある考えで、取り立ててどうということもないこの言葉。
だけど、なんで今さら夢にと思った。
が……。

11月25日、26日に行う、成田ヨガスタジオ主催の「オリエンタルヨーガ ジャパン」のチラシを昨夕から仕上げ調整に入り、プリントアウト、発送を今朝修了。

その後、ずっと気がかりだったことをきちんと見ようと思い、佐保田鶴治先生の「ヨーガ根本経典」2冊で、古典的アーサナの確認をした。
やはり、古典的ハタヨーガには、立位のアーサナは殆どない。いわゆる立木のポーズと、よくわからないが立位らしいアーサナが、1,2見つかっただけだ。
臥位のアーサナも多いが、坐位のアーサナが際立って多い。

その他、今追求中なので、まだ詳しく書けるところまできていないけれども、ヨーガの目的は欧米文化の影響を受けて、19世紀末から20世紀初頭頃に始まり今日までに、健康法、健康体操に変容してきていると、思えてならない。
こんにち、インドもヨガブームである。
このインドヨガも欧米の動きに追従したきらいがあり、今日急速に欧米の価値観の方向へ変容してしまっていると、考えざるを得ない。
残念だが、……。


もちろん、本物のインドヨーガは健在なことは、よく理解している。私は、インドが大好きだから、そこのところはつかんでいるつもりである。
しかし、最近の様子を見ていると、インドですら健康体操というだけのヨーガが急激に拡大していることがうかがわれるのだ。
アジア的な感性が希薄化しているのは、日本だけでなく、インドでも感じられることが残念なのだ。

そうした中で、松元頼子さんと私は「日本のヨーガを世界に提唱しようではないか」という話になり、頼子さんが企画してくれたのが「オリエンタルヨーガ ジャパン」だ。

日本の風土が生み出したヨーガがあっていいのではないか。
というか、すでにある。

それが、私たちの立場だ。

 

感性にしたがう

健康法に関する話題の中でしばしば出てくることがある。

それは、その健康法の理論によって「こうするのが正しい方法だ」「これが、最高にいい」「こうしてはいけない」という内容のことである。

そういう中で「玄朴さんはどんなものを食べているか」と聞かれることがある。
私は、食べ過ぎないこと。量の目安は、次の食事までにおなかが空くていど。
できるだけ野菜をたくさん、最初に食べてからほかのものを食べること。
という二点だけ心掛けている。そのほかのことは、ほとんど気にしていない。
細かい理論や、理屈から入ると、身心の柔軟性がなくなっていくように思えるのだ。

何をどのようにとか、また細かいことは自分の感性に任せている。
自分自身の中に、すべてを知っている存在がある。
静かに、耳を澄ませていれば、その声が聞こえる。

その声を素直な気持ちで聞けるようにする練習。
その一つが、何をどう食べるかということの一つだと、自分では考えている。
健康のためにではなく、自分に素直になるための練習として食のことも、運動のことも、睡眠のことも。

最近は、その声に逆らってしまうことが、大分少なくなってきている。
これが、ヨーガの道なのではないだろうか。

小さなことが大きくなる

当たり前に流れている今日のできことでも、あるいは特別に企画したイベントにおいてでも、
そのことが予想していた通りに運んだか、うまくいったかどうか。

そういうことは、誰でも気になることと思います。

そして、起きたことは一つの結果として、良くも悪くもそれなりに重く受け止めることは、もとよりのことでしょう。

ところが、小さな出来事、本当に何でもないと思えるような事が、後から起きる一連の大きな流れの始まりである、ということが意外にしばしば起きるものです。

初めて会って、簡単な挨拶をしただけの人と、いつの間にか深いつながりができて、それが大きなことに発展していくということは、それほどまれなことではない、ということを近頃つくづく思います。

そうしたことから、改めて、
「『小さなことを、何気ない、無視していいような些細なことを大切にする。それが将来を分けることにつながる。』
そのように自覚して、感性を研ぎ澄ましながら、一つ一つを大切にしていきたい」と思うようになりました。
こういうことが、生活のヨーガの一つだと思えるのです。

バガヴァッド・ギーターを読む カルマヨーガ

私たちの心の中に、いいことをしているという自惚れがあると、
正しいことをしているという自惚れがあると、
その結果を、見返りを、求めることになります。

バガヴァッド・ギーターで繰り返し説いている「行為の結果を捨てよ」ということは、
自惚れが消えた状態になりなさいということかもしれません。
淡々と行うとか、
自然でありのままに生きるとか、
そういうことは、自惚れが消えている状態でしょう。

カルマヨーガの難しさ、困難さは
そのような自分を素直に見つめて、
生活行動を、心を、調えて生きることにあるのかもしれません。

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