Author Archives: zen-yoga.jp

ここぞという時は、鼻から息を吐き切ろう

鼻から吐けなければ、いつでもどんな時でも、腹腰に気合を入れられるようにはならない。
現代生活では、しっかり体を動かす仕草がなくなってしまった。

井戸での水汲み。
桶に入れた水を運ぶ。
洗濯板で洗濯をする。
おので薪を切る。
山へ芝を刈りに行く。
鍬を持つ。
……。

こういうことは、今や昔話の中にしかない。

おのずと腹腰に気合を入れる必要がない。

だから現代人は、鼻から息を吐いて、吐き切ることが出来なくなっている。

しかし、真剣に自分の生き方を心行くまで全うしようとするなら、必要な時にはいつでも鼻から吐き切る事ができなければならないだろう。
必要な時とは、どんなときか。
ここぞというときだ。
いざ自分が覚悟を決めて何かをしようとする時だ。
まさに勝負している時だ。

呼吸法は悪い呼吸習慣を治すためのもの

呼吸法は、自分の悪い呼吸習慣を治し、自分にとって最適な呼吸術を完成させるためにあります。

私達は普段当たり前に呼吸をしています。
その何気ない呼吸の大部分は、「浅く吸う」「肩や喉に力が入っている」「お腹と腰の気合が抜けている」という傾向があります。

その様な呼吸習慣を治すために、呼吸法があります。
毎日、時間を決めて、意識して、努力して、その習慣を自分にとって最適な呼吸習慣にする。
そして、それを自分の呼吸術として完成させるためにあるのです。

毎日、決まった時間に呼吸法をするようにしていると、普段の生活の中で、おかしな呼吸をしていることに気が付くようになります。

ときどき気がついて、その場で呼吸を正すことが出来る様になります。
毎日練習をしていれば。

普段の生活で、不自然な呼吸をしていることに当り前に、気が付くようになります。
毎日練習していれば。

いつしか、気がつかないで、悪い呼吸を正しているようになります。
毎日練習していれば。
そうやって、だんだんに呼吸術にするのです。

増え続けるヨーガ人口

ヨーガ人口は、今でも増え続けているといいます。
もう何年か前にヨーガブームは終わって、ヨーガをする人は減っているのではないかと、私は考えていました。
ところが、ある人から「ヨーガ人口は増えています」と、聞きました。

統計を見ると、2003年ごろは数十万人にすぎなかったものが、2010年ごろに100万人を突破し、2015年には、350万人になるとか。
私は、統計調査とか推計調査とか、一概に信じません。こういうものは、調査する人の都合のいい数字になってしまうからです。

でもまあ、昔から比べると確かにヨーガの人口は増えていると思える実感はあります。
実際、東京の区民館や関東周辺の公民館などでのヨーガクラスの数はずいぶん増えていて、驚かされます。

今流行のアメリカナイズされたヨーガを越えて、東洋的身心思想の原点に返ったところから進化させた日本のCulture(カルチャー)にしていきたいと、秘かに考えています。

ヨーガは、もとよりインド発祥ですが、中国、日本など東洋的身体技法の考え方は共通する身心思想があります。
それを日本の風土から生まれる文化にすることが望まれると私は考えるのです。
例えば、禅から茶道や、花道、武道などが生まれたように、……。

今、わざわざCultureと、書いたことには、理由があります。
この言葉には、養うとか修養とか訓練、練習という意味もあるからです。
つまり、私たち自身の身心を自身で養い育てることがヨーガだからです。

体と心と真実自己

今日書くことは、わかりにくい内容かと思います。
理屈ではなく、体験されるとき、自然に納得していただけると思います。
体験の時は、人によって異なります。
「そんなものか」と、思ってお読みいただければと思います。

歳をとるにつれて、学んでいくもの。
それは、体と心の使い方。
心は、いつも体から離れてどこにでも飛び回る。
しかし、必ず体にもどる。

体から離れている時の心は、まさに迷える子羊だ。
いい意味でも悪い意味でもない。
無記の迷いだ。

体はどうか。
調子のいいときも、悪いときもある。
健なときも病むときもある。
これまた迷う。
どちらも一筋縄ではいかない。

どちらをも調えて行く手綱が必要である。
手綱を操る主体が、ある。
それこそ真実の自己、真実身体というもの。

ここで言う、自己と身体とは同義語である。
忘れてはならないことは、ここで言う自己は、心ではない。
身体は、体ではない。
さて、手綱を操るには、技術が必要だ。
その技術をヨーガという。
そのために工夫を凝らして歩むことを行という。
どこを歩むのか。
道を歩むのだ。

眠れないときどうする

彼は、昨夜眠れただろうか。
89歳の男性から、「眠れない」という電話があった。

この方とのおつきあいは、10年前のセロトニン呼吸法以来だ。
あの時も、定年後の日々の不安から、睡眠障害で、何度もお話を伺いながら、呼吸法やヨーガでの対策をとったことがある。
この数年はお互いにご無沙汰状態だった。
そして夕べの電話だった。

眠れないので、薬を処方してもらって1ヶ月ほど飲んだが、効いた気がしない。
「眠れる体操を教えてほしい」
そういう問い合わせだった。
背中を伸ばす体操を、「活力呼吸法」のページで教えてあげた。

電話をかけて来るということは、ただそれだけのことではない。
眠れない背景に、様々なこころの、そして体の悩みがあるに違いない。
そのことをしっかりとつかみ取っている必要が、私の中にあるべきだ。

なぜならば、私自身何か一つのことで悩みを持っていることは、その背景に、私自身の様々な要因が絡み合っているからだ。
このことは、だれでも、同じに違いない。

どうしたらいいか、答えはわかっている。
どういう風に心を置いたら眠れるかわかっている。
難しいのは、その方法を自分の中で「術」として、完成させることだ。

姿勢や呼吸法を忘れて自然体

姿勢が調い、呼吸のリズムができたら、何をどうやってという方法は自ずから忘れます。
自分が納得できている時、体のことは気にならなくなり、自然に心も体も自己のうちに落着きます。

そういう時は、心配事、心をざわざわさせること、気になること、それらは静かに消えて、今自分のすることに心も体も坐ります。
坐って歩ける様になるといえばいいでしょう。

それが自然体です。

体が覚えたら、忘れる。
体が忘れていないか、時々確認する。

血圧測定で分かってきたこと

毎朝、目が覚めてすぐ、私は血圧を測ります。
「安静状態」のとき、「自然呼吸をしている」とき、「呼吸法をしている」とき、「ヨーガを始めてから」など、いろいろな条件で何回も血圧を測っています。

始めたのは4年ほど前ですが、続けているといろいろなことがわかってきます。

例えば、次のようなことがはっきり確認できるようになりました。

「ただ頭の中を考えがぐるぐる廻る」ときと、「何かしなければならないことや心配事を考えている」ときと、「意識が身体に置かれている」ときとでは、安静にしていても血圧は大きな違いを持つことです。

心の置き方が、身体に影響を与えていることがとてもはっきりとわかるのです。

意識が身体に落着いているときが、血圧が低く安定しているのはもちろんです。
その様な状態になるには、呼吸法がいいけれども、ヨーガはもっといいことがわかりました。
ヨーガでは、もちろんしっかり呼吸法をしながら行います。
ヨーガを10分から15分ほどしていると、自然に身心が落ち着きます。

このようなことをいろいろと調べているうちに、はっきり分かって来たことは、日常の生活活動では、考えていることと行動がマッチしている時は、身体の内部環境も安定していい状態になることです。

思ったことが上手く行かないような状態が続く事は当然よくありません。
そういう時は、何でもいいから行動を起こす事が大切です。

行動することで意識が切り替えられて、行動と意識がマッチングしやすくなるのです。
そして身体状態も良くなります。

その最善の方法は、ヨーガや呼吸法だと確信できるようになってきました。
意識が身体に落着き、次なる行動と思考のアイデアが生まれるからです。

とはいえ一日が始まり生活が流れているときにヨーガをするのは難しいので、普段に最も現実的で効果があるのは、三秒間無心術がもっともお勧めということになりました。

呼吸を意識するだけでいい

体と心をつなげているのが呼吸です。

呼吸法ではありません。

どういう意味でしょうか。
簡単な実験をして見るとすぐわかります。
実験は「呼吸を意識する」ことです。

そのとき呼吸で動いている胸やお腹といった体の部位を意識しているでしょう。
そして、同時にただ静かな心がそこにある事を自覚できるでしょう。

呼吸を意識するというのは、具体的には胸やお腹の動きを意識することですが同時に心そのものを意識することでもあるのです。

バラバラである身心を一如にするもの。
それが呼吸。

そのような呼吸が、呼吸法の基礎です。
その上で、呼吸法があります。
そして、それを習慣化して、自分のものになった時、それが自分の呼吸術ともいうべきものでしょう。

舌の位置はどこ?

呼吸法は、基本的に鼻呼吸で行います。
呼気も吸気も鼻呼吸が原則です。
もちろん、鼻が詰まっているときや運動中は口呼吸が当然ですが、座位の呼吸法やヨーガの様な低強度運動、通常の歩行などは、鼻呼吸が原則です。

さて、鼻呼吸をしているとき口は当然閉じています。
この時、舌はどのようになっているでしょうか。

のどの力、舌の力が抜けて、リラックスしていれば、舌は口蓋(上あご)にピタッとついています。

10年以上前に、私の呼吸法を学んでくださり、仕事でも日常生活でも、今ではあたりまえに実践している声楽家がいます。

出逢ってから、今日までほとんど毎月の様に呼吸法の事がテーマの研究会をしています。
その彼女は、それでもなお自分で納得できる声が出ないと言います。

今日は、舌の位置が話題になりました。

話を聞いてみると、普通に鼻呼吸をしているときの舌の位置が、謳う時の声と深い関係があるというのです。

鼻呼吸の時に、舌が口蓋から離れているようだと、力があって遠くまで通る声が出ないのだと言います。

坐禅のときの舌の位置は、声楽にまで関係するということが、今日の勉強会の結論でした。

「治すもの」ではなく「治るもの」

よく、自然治癒力という言葉が使われます。
それはそれいいのですが、私はただ身心に治癒力が備わっているからという意味で「治る」ものと言うのではありません。普通に使われている自然治癒力は、自己があって他己があるという二元的世界でいえることです。科学や医学、医療は、この自然治癒力を元にしています。

自他が一如の世界(無心の有り方)では、病気というものも健康というものもありません。
病気もないし健康もない。

二元的世界の自己が、このことを素直に受け入れると、病気が治るものだということが当たり前に、認知されます。
そういう状態で、治療やケアーを行う時に「多くの病気は治ってしまう」のです。
このことは、体験されると「なるほどそうだな」と納得できます。
「多くの病気」と書きましたが、それは治らない場合が多々あるからです。

その理由は、例えば「治らない」「治りそうもない」と自我が思い込んでいることが多いからです。
それは、無心の在り方ではありません。

無心の在り方になる事が、大切なのです。

この話は、あらゆる事柄に応用されます。
「目的や夢の実現のために、何々をする」ではなく、「目的や夢は、実現さる」ものなのです。
もう一歩突っ込んでいえば「目的や夢は、すでに実現されている」ものです。

こういうことは、体験しなければわかりません。
一度には、なかなか理解できないし、わかってきませんが、呼吸法を続けていると、ある瞬間にこのことを体験するでしょう。また、いつの間にか、このことが解っている自分と遭遇するはずです。

この体験の積み重ねが日常の私の、ごく普通の生活をしている私の快適な歩みを進めていく原動力となっていくはずです。
体験するための土台となる行が、呼吸法なのです。

1 10 11 12 13 14