Category Archives: ヨーガ

智慧と知識のちがい

人類は、新しい知識を限りなく蓄積していく。
一方、智慧は決して増えない。
なぜなら智慧は、初めから限りなく存在しているものだからだ。
ただ、時に応じて発揮されるだけのことだ。そしてそのときがくるまでは、その姿をみせることはない。
そして発揮された、瞬時に跡形もなく消え失せる。

 

知識は、記録にとどめそのまま使うことが出来る。しかし、智慧は一人一人の人生の中で、求められるまで開示されない。

もちろん、発揮された智慧を文字や言葉あるいは映像として 、残すことは出来る。

しかし、知識とちがうことは、コピーペーストしても、自分の人生の問題解決に繋がらないことだ。ただ、叡智が自己の内から湧き上がるための触媒として使うことは出来る。

 それには私たち自身に課せられる問題に取り組み、解決に向けて真剣な努力をするのみだ。

とはいえ、智慧をよりスムースに開示するための方法はある。 

それが、ヨーガや呼吸法のような身体技法だ。

ヨーガや呼吸法をおこなうことで、無心になれる。無心になる事で、叡智が自己の深奥から湧き上がる通路が開きやすくなると、考えたらいいだろう。

結果や効果を考えないで、ただ行う。

行とは、そうしたものだ。

9ヶ月の赤ちゃんがヨーガ

今まで、私の教室に子供と一緒に参加される方は今までに、数えきれない程です。
そして、子ども達も一緒にヨーガをしてくれます。

生後間もない時期から親が連れて来てくれることもあります。
ヨーガをしているのを見て、子どもがなんとなくまねるようになるのは、だいたい3歳ぐらいです。

ところが、昨日、わずか生後9か月の赤ちゃんが、私達がやっているのを見ていて、猫のポーズをまねてくれたのです。

もう少しはいはいという時期なのですが、私達が四つん這いになると、一所懸命それをまねて、しかも背中をそらそうとします。

これは、私の教室での新記録です。

ふっと「この子、将来ヨーガのインストラクターなにる素質があるのでは」と、思いました。
この子が仮に20歳でヨーガを教える様になったら、見て見たいと切実に願うのです。
その時私は、93歳。
その時、私は元気でヨーガを教えていられるだろうか。
いや、生きていられるだろうか。

 

まだ、駄目ではない

ほとんどうまくいきそうだったのに、一点に問題があって、全部だめになりそうだ。
まだ駄目だと決まってはいない。それなのに駄目だった時のことだけが、心を占拠する。

先ず、呼吸法をしよう。3秒間無心術だ。
そしてヨーガをしよう。
占拠したものを否定せずにいると、それは消える。

そして、あらたな芽生えを待とう。
自己の内から湧き上がる芽生え。
それは不思議なことに、状況の好転とリンクする。
一つでも、良い事があるはずだ。
それを心にとらえて、そこから育てる。
それがすへてを好転させてくれる。

それが指名なら必ず実現す。

ヨーガインストラクターのためのニンチヨーガバイブル

今日、ヨーガ人口はどんどん増えつづけていると聞きます。
そして、大勢のインストラクターの方々が、ヨーガ教室だけでなく、介護予防や医療の現場など様々な場で活動するようになりました。

そして認知症予防や軽減にヨーガが有効だと言う事も良く知られるようになってきています。
しかし、このことをきちんとした検証、研究および調査して、納得できる説明をしようとするとなかなか困難があるのではないかと思います。

幸いな事に私は、2002年のセロトニン呼吸法の出版以来、信州大学、長野県看護大学、筑波大学などでの実験に立ち会ったり、研究、調査をする機会を持ってきました。
そうした中で、認知症対策にどうして、ヨーガがいいのかと言う事が、かなり詳しく説明できるようになりました。

 

すでに、認知症の予防や症状の軽減に、運動がいいことは、誰もが知っている時代です。
それはヨーガが単に運動というだけでなく、何よりもアーサナ、プラーナーヤーマ、ディヒャーナなどの身心への総合的な効果があるからです。

このことを今回まとめて、アマゾンkindleで、著わしました。
タイトルは、「ヨーガインストラクターのためのニンチヨーガバイブル」です。

まだ、ほとんど知られていないヨーガの効果を、日本中で活躍していられるインストラクターの方々と共有したいと、私は願っています。
皆がそれぞれの立場で、ヨーガを広めることが、超高齢社会に生きる私達の使命ではないかと考えるからです。
みなさまの現場で役立てて下されば幸いです。

 

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ここぞという時は、鼻から息を吐き切ろう

鼻から吐けなければ、いつでもどんな時でも、腹腰に気合を入れられるようにはならない。
現代生活では、しっかり体を動かす仕草がなくなってしまった。

井戸での水汲み。
桶に入れた水を運ぶ。
洗濯板で洗濯をする。
おので薪を切る。
山へ芝を刈りに行く。
鍬を持つ。
……。

こういうことは、今や昔話の中にしかない。

おのずと腹腰に気合を入れる必要がない。

だから現代人は、鼻から息を吐いて、吐き切ることが出来なくなっている。

しかし、真剣に自分の生き方を心行くまで全うしようとするなら、必要な時にはいつでも鼻から吐き切る事ができなければならないだろう。
必要な時とは、どんなときか。
ここぞというときだ。
いざ自分が覚悟を決めて何かをしようとする時だ。
まさに勝負している時だ。

増え続けるヨーガ人口

ヨーガ人口は、今でも増え続けているといいます。
もう何年か前にヨーガブームは終わって、ヨーガをする人は減っているのではないかと、私は考えていました。
ところが、ある人から「ヨーガ人口は増えています」と、聞きました。

統計を見ると、2003年ごろは数十万人にすぎなかったものが、2010年ごろに100万人を突破し、2015年には、350万人になるとか。
私は、統計調査とか推計調査とか、一概に信じません。こういうものは、調査する人の都合のいい数字になってしまうからです。

でもまあ、昔から比べると確かにヨーガの人口は増えていると思える実感はあります。
実際、東京の区民館や関東周辺の公民館などでのヨーガクラスの数はずいぶん増えていて、驚かされます。

今流行のアメリカナイズされたヨーガを越えて、東洋的身心思想の原点に返ったところから進化させた日本のCulture(カルチャー)にしていきたいと、秘かに考えています。

ヨーガは、もとよりインド発祥ですが、中国、日本など東洋的身体技法の考え方は共通する身心思想があります。
それを日本の風土から生まれる文化にすることが望まれると私は考えるのです。
例えば、禅から茶道や、花道、武道などが生まれたように、……。

今、わざわざCultureと、書いたことには、理由があります。
この言葉には、養うとか修養とか訓練、練習という意味もあるからです。
つまり、私たち自身の身心を自身で養い育てることがヨーガだからです。

体と心と真実自己

今日書くことは、わかりにくい内容かと思います。
理屈ではなく、体験されるとき、自然に納得していただけると思います。
体験の時は、人によって異なります。
「そんなものか」と、思ってお読みいただければと思います。

歳をとるにつれて、学んでいくもの。
それは、体と心の使い方。
心は、いつも体から離れてどこにでも飛び回る。
しかし、必ず体にもどる。

体から離れている時の心は、まさに迷える子羊だ。
いい意味でも悪い意味でもない。
無記の迷いだ。

体はどうか。
調子のいいときも、悪いときもある。
健なときも病むときもある。
これまた迷う。
どちらも一筋縄ではいかない。

どちらをも調えて行く手綱が必要である。
手綱を操る主体が、ある。
それこそ真実の自己、真実身体というもの。

ここで言う、自己と身体とは同義語である。
忘れてはならないことは、ここで言う自己は、心ではない。
身体は、体ではない。
さて、手綱を操るには、技術が必要だ。
その技術をヨーガという。
そのために工夫を凝らして歩むことを行という。
どこを歩むのか。
道を歩むのだ。

眠れないときどうする

彼は、昨夜眠れただろうか。
89歳の男性から、「眠れない」という電話があった。

この方とのおつきあいは、10年前のセロトニン呼吸法以来だ。
あの時も、定年後の日々の不安から、睡眠障害で、何度もお話を伺いながら、呼吸法やヨーガでの対策をとったことがある。
この数年はお互いにご無沙汰状態だった。
そして夕べの電話だった。

眠れないので、薬を処方してもらって1ヶ月ほど飲んだが、効いた気がしない。
「眠れる体操を教えてほしい」
そういう問い合わせだった。
背中を伸ばす体操を、「活力呼吸法」のページで教えてあげた。

電話をかけて来るということは、ただそれだけのことではない。
眠れない背景に、様々なこころの、そして体の悩みがあるに違いない。
そのことをしっかりとつかみ取っている必要が、私の中にあるべきだ。

なぜならば、私自身何か一つのことで悩みを持っていることは、その背景に、私自身の様々な要因が絡み合っているからだ。
このことは、だれでも、同じに違いない。

どうしたらいいか、答えはわかっている。
どういう風に心を置いたら眠れるかわかっている。
難しいのは、その方法を自分の中で「術」として、完成させることだ。

血圧測定で分かってきたこと

毎朝、目が覚めてすぐ、私は血圧を測ります。
「安静状態」のとき、「自然呼吸をしている」とき、「呼吸法をしている」とき、「ヨーガを始めてから」など、いろいろな条件で何回も血圧を測っています。

始めたのは4年ほど前ですが、続けているといろいろなことがわかってきます。

例えば、次のようなことがはっきり確認できるようになりました。

「ただ頭の中を考えがぐるぐる廻る」ときと、「何かしなければならないことや心配事を考えている」ときと、「意識が身体に置かれている」ときとでは、安静にしていても血圧は大きな違いを持つことです。

心の置き方が、身体に影響を与えていることがとてもはっきりとわかるのです。

意識が身体に落着いているときが、血圧が低く安定しているのはもちろんです。
その様な状態になるには、呼吸法がいいけれども、ヨーガはもっといいことがわかりました。
ヨーガでは、もちろんしっかり呼吸法をしながら行います。
ヨーガを10分から15分ほどしていると、自然に身心が落ち着きます。

このようなことをいろいろと調べているうちに、はっきり分かって来たことは、日常の生活活動では、考えていることと行動がマッチしている時は、身体の内部環境も安定していい状態になることです。

思ったことが上手く行かないような状態が続く事は当然よくありません。
そういう時は、何でもいいから行動を起こす事が大切です。

行動することで意識が切り替えられて、行動と意識がマッチングしやすくなるのです。
そして身体状態も良くなります。

その最善の方法は、ヨーガや呼吸法だと確信できるようになってきました。
意識が身体に落着き、次なる行動と思考のアイデアが生まれるからです。

とはいえ一日が始まり生活が流れているときにヨーガをするのは難しいので、普段に最も現実的で効果があるのは、三秒間無心術がもっともお勧めということになりました。

ブーラーナとか気というのは情報の流れのこと

普通日本の呼吸法は、止息ということをしません。
せいぜい、密教の呼吸法の中にある程度です。

ヨーガでは、一般的に止息が行われます。
吸って止めることをクンバカと言い、吐いて止めることをレーチャカ・クンバカと言います。

クンバカはプラーナ(気)を体内に溜めるという意味があります。
プラーナでも気でもいいのですが、これらの言葉は一般的な理解ではエネルギーという意味に使われます。

しかし私は、エネルギーではなくプラーナとか気というのは「情報の流れ」だと考えています。

「流れ」ということは、固定的な情報を意味しているのではなく、いのちがいのちの目的に応じて働いている働きを造りだしているという意味です。
働いているということは、変化し続けているという意味でもあります。

例えば、DVDプレーヤーは電気のエネルギーで動きます。
しかし目的の映像を観るにはDVDメディアにその映像の情報が記憶されていなければなりません。
記憶されているものが、必要なタイミングで使われることで、ディスプレーに映像が映し出されます。

またたとえば、生命を維持するには酸素と食物といったエネルギーがなくてはなりません。
でも、人間が人間として成長し活動するためにはDNAと呼ばれている遺伝情報の中に組み込まれていて必要な時に必要なタイミングで、DNAの情報が発現しなくてはなりません。
遺伝子発現ですね。

この意味でいうと、プラーナとか気とかをどんなに使っても疲労を感じたり、それでおなかがすくということはありません。
優れたヒーラーは、一日に何十人と治療しても「疲れない」と言います。

情報の流れで治すからです。

もちろん活動しているいのちはエネルギーを使って生きているので、エネルギーを消耗するし、廃棄物も出て疲労していきます。
でも、「いいプラーナ(気)」によって効率よくエネルギーが使われるなら、疲労することが少なくなります。

行き詰まっているときに、アイデアを沸かして困難を打開させてくれるのも「プラーナ」によるものです。

つまり私たちが、生活や仕事で目的に向かって歩ませそれを効率よく進めるには、エネルギーではなく、情報の流れを調えていくことが大切で、それを実現する上で呼吸術が大変役立つということになります。

3秒間無心術の意義は、ここにあります。

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