姿勢や呼吸法を忘れて自然体
姿勢が調い、呼吸のリズムができたら、何をどうやってという方法は自ずから忘れます。
自分が納得できている時、体のことは気にならなくなり、自然に心も体も自己のうちに落着きます。
そういう時は、心配事、心をざわざわさせること、気になること、それらは静かに消えて、今自分のすることに心も体も坐ります。
坐って歩ける様になるといえばいいでしょう。
それが自然体です。
体が覚えたら、忘れる。
体が忘れていないか、時々確認する。
姿勢が調い、呼吸のリズムができたら、何をどうやってという方法は自ずから忘れます。
自分が納得できている時、体のことは気にならなくなり、自然に心も体も自己のうちに落着きます。
そういう時は、心配事、心をざわざわさせること、気になること、それらは静かに消えて、今自分のすることに心も体も坐ります。
坐って歩ける様になるといえばいいでしょう。
それが自然体です。
体が覚えたら、忘れる。
体が忘れていないか、時々確認する。
よく、自然治癒力という言葉が使われます。
それはそれいいのですが、私はただ身心に治癒力が備わっているからという意味で「治る」ものと言うのではありません。普通に使われている自然治癒力は、自己があって他己があるという二元的世界でいえることです。科学や医学、医療は、この自然治癒力を元にしています。
自他が一如の世界(無心の有り方)では、病気というものも健康というものもありません。
病気もないし健康もない。
二元的世界の自己が、このことを素直に受け入れると、病気が治るものだということが当たり前に、認知されます。
そういう状態で、治療やケアーを行う時に「多くの病気は治ってしまう」のです。
このことは、体験されると「なるほどそうだな」と納得できます。
「多くの病気」と書きましたが、それは治らない場合が多々あるからです。
その理由は、例えば「治らない」「治りそうもない」と自我が思い込んでいることが多いからです。
それは、無心の在り方ではありません。
無心の在り方になる事が、大切なのです。
この話は、あらゆる事柄に応用されます。
「目的や夢の実現のために、何々をする」ではなく、「目的や夢は、実現さる」ものなのです。
もう一歩突っ込んでいえば「目的や夢は、すでに実現されている」ものです。
こういうことは、体験しなければわかりません。
一度には、なかなか理解できないし、わかってきませんが、呼吸法を続けていると、ある瞬間にこのことを体験するでしょう。また、いつの間にか、このことが解っている自分と遭遇するはずです。
この体験の積み重ねが日常の私の、ごく普通の生活をしている私の快適な歩みを進めていく原動力となっていくはずです。
体験するための土台となる行が、呼吸法なのです。
知識は、言葉による説明を聴いたり読んでわかる。
智慧の書は、説明を聴いたり読んで、「わかった」と思うのは、わかっていない証拠だ。
すでに本当に分かっているときだけ、智慧の書を読んでわかるものだからだ。
知識は、行動とは関係ない。
智慧は、行動に結びつく。
智慧は、身心一如のものだからだ。
難しいのは、ここからです。
私たちはえてして、自分の知識を「智慧だ」と思っていることです。
「わかった」のほとんどは、わかっていないし、自分の智慧は行動に結びついていると思っていることのほとんどは、知識なので行動に結びついていないということです。
自分のものになった智慧は、それが知恵だとは考えていない。
そんな風に思ってもいない。
言葉として智慧が現れるのは、ふっとしたときに口をついて現れる。
無心の瞬間に、言葉として現れる。
そういうあらわれ方をする。
私は、このごろそのように思えてならないのです。
あれもある。
これもある。
やらなければならないことが沢山あって、一つをしていると他のことが気になる。
落ち着かない。
上の空だ。
足が地についている気がしない。
そんな時は、三秒間無心術を使おう。
それで心をいったん体に落着かせるといい。
やることが三つも四つもある。
しかし、今この瞬間に出来ることは、ただ一つ。
体が一つしかないのだから。
では、どれをするか。
どれが最優先なのか。
これは、意外にいい加減なものだ。
目が覚めて、いろいろ頭が巡り、これをしなければと思う。
布団をたたんで、顔を洗って、いよいよ始めようという時、最優先の順位は変わっていたりする。
落ち着くにはどうしたらいいのか。
三秒間無心術を使うことだ。
そして、何をするかはお任せ。
何にお任せするのか。
潜在意識にお任せするのだ。
バタバタ考えなくても、脳は裏で全部処理している。
ちょうど、パソコンのようなもの。
我々は、ディスプレーを見ながら、パソコンを操作している。
しかし、パソコンのCPUは、眼に見えない作業を高速で、しかもたくさんこなしている。
僕らの脳は、パソコンよりもずっとずっと、ずっと優秀なのだ。
潜在意識にお任せしよう。
その方法が、三秒間無心術なのだ。
集中して制作していた「呼吸体操で心に豊かさを」が出来上がって、ふっと心が空虚になりました。
しかし、やらねばならないことがあります。
一日そのことに忙殺されて床につきました。
疲れていたのですぐ眠ってしまったのですが、4時間もすると目が覚めて、眠れません。
「思い切って、起きちゃうか」と、日課を始めました。
いつもの様に、禅・ヨーガです。
ところが、胸の内が何か空しい。
何をしても意味を感じられない。
「やることは、沢山あるんだけど」と思います。
だけと、その「やること」に意味が感じられないのです。
前触れもなく自殺しちゃう人がいるけど、こんな気分かなと思ったりします。
こういう時、呼吸法やヨーガをして、あっと言う間に気分が良くなるとは思えません。
「こんなことしたって、よくなりっこない」と、考えたりするのです。
「この厭な気分は、永遠に続く」様な気がします。
ただ、私は永年の経験で、「厭な気分には取り合わず放置」していれば、じきに消えてしまうことを知っています。
「ただ、呼吸法やヨーガをしていればこの気分は消える」と。
何分ぐらい経ったかは覚えていませんが、「ただ淡々」とした気分になりました。
やがて、虚しさが消えて、いつもの自分に還ったのです。
そして、次のように思いました。
辛い時、やる気が無くなった時、自分はどれだけヨーガ救われてきただろうか。
静かに活力呼吸をしたおかげで、どれだけ自分を取りもどして来ただろうか。
このヨーガと呼吸法の功徳を出来るだけ多くの人に伝えて行かねばならない。
それが自分の使命だ。
無心と一口に言うけど、どういうことかわからない。
いろんな解釈が出来て、こうだ、ああだと言われている。
でも、本当の無心というのは、シンプルに『無条件の安心』と言えばいい。
無条件の安心とは、心の中に、無駄なも、もがきや葛藤がすべてなくなっている状態。
そのことになりきっている状態。
なりきっているということは、今あることに夢中になっている状態。
つまり、三昧の状態だ。
夜中に目が覚めて眠れない。
仕事の合間や、ちょっとしたことで、不安や、心配事が心を支配してしまう。
「ちっとも無心になれない」
そんなとき、どうしたら、『無条件の安心』になる?
自分の外に安心を見つけようとしたら、どこにもないよ。
無条件の安心を発見しよう。
無条件の安心は、自分の中にあるんだ。
何時でも、どこにいても、今ここにあるんだ。
自分の外にある安心は、条件付きの安心だ。
誰かがいれば安心。
お金があれば安心。
健康なら安心。
仕事が安定すれば安心。
次の勝負に勝てれば安心。
人が認めてくれれば安心。
……。
そういう安心は条件付きの安心だ。
そういう安心に頼っているとき、無心じゃあない。