超越ではなく横超

親鸞の言葉に、「横超(おうちょう)」というのがあります。これは「横ざまに超える」ことで、ふつう言う超越とは意味が違います。親鸞は、超越することを竪超と言っています。

「超越とか堅超は、上へ向かって努力して乗り超える、飛び超える」ことですが、横超は、努力が要りません。
「すぐ隣にある道へ一跨ぎすれば、本当の悟り、自由自在な自分が歩んでいることに気が付く」というようなイメージでしょうか。

私が言おうとすることは、ヨーガの話です。
一所懸命努力して、アーサナ、呼吸法、冥想を日々練習し、生活も正しく調える、そしていつしか幸せな自分、自由自在な自分(カイヴァリヤ)を獲得するというイメージが、ヨーガです。

横超は、そうではありません。
「横ざまに超えたら、アーサナ、呼吸法、冥想、生活の全てが、そのまま自由自在な自分が現前している」ということになります。

これは、ヨーガスートラやハタヨーガプラビティーカなどとは違う道と言えるかもしれません。

バガヴァッドギーターでいう「バクティ」に相当するといっていいでしょう。
「バクティ」は日本語で、信愛、献身と訳されますが、普通に理解されるよりも、もっと徹底的に人生そのもの、命そのもの、存在そのものありようを信じ切った態度です。
これは、苦しんだり悩んだりしていることの全てが、悟っていることそのものの現れだということになるかと思います。

ニローダの意味

焦る心を止めるのは、難しいですね。
でも、もし焦る心が自然に静かに消えれば、そこに努力は必要ありません。

今、焦っています。心の中で「まだ早い。待った方がいい」と感じています。「アンフェアーなことだから、やめた方がいいのではないか」という漠然とした感じがあります。
けれどもなかなか我慢が出来ないものです。

行動を止めようとして努力することを、心の働きを制御するということが出来るでしょう。

一方、呼吸を調えて静かに坐っていたら、自然に焦りが消えていることに気が付くことがあります。行動をしようとする心はいつしか消えているのです。
それを「心の働きを止滅すること」というのではないでしょうか。

今、ヨーガスートラのⅠ-2の「ヨーガとは、心の働きをニローダすることだ」のニローダの二通りの訳を「焦り心」に当てはめて考えてみました。

ニローダを「制御する」という意味と、「止滅する」という意味の二通りの解釈があることは、ヨーガを勉強しているとすぐに知ることになるのですが、初めの人にとって理解が厄介です。

ヨーガスートラをズーッと読んでいくと、ニローダの意味は止滅でなく制御することとして丁寧に解説しているように思えます。

止滅と理解すると、そんな解説は無用に思えます。
止まり滅するには、自我意識は全く必要ありません。自我が、おのずから消えていることだからです。
この場合ですと、これに続く章節は、単なる饒舌なのです。すべて飛び越して、最終章の最後(Ⅳ-34)のカイヴァリヤに直ちに到達していることになります。

止滅すると云う理解は、むしろ禅に近いでしょう。禅にも大量の饒舌があります。饒舌なのにそのような饒舌を否定しているという特徴があります。
それが、禅問答という形で凝縮されている考えていいでしょう。

今は省きますが、禅とヨーガスートラは、兄弟のようなものです。

話を最初に戻しましょう。

姿勢を正し、呼吸を調える時、自然に心が静かになります。
一瞬にして静かになるには、毎日これの実践を繰り返す必要がありますが、これをすることによって人生に得られることは、とても大きいものです。

坐禅と冥想とは何が違うのだろう

独坐大雄峰という言葉がある。碧巌録にある百丈禅師の言葉だ。
また、道元の只管打坐はよく知られている。姿勢を正してただ坐っている状態は、お釈迦様の悟りそのままだ、というような意味だ。

禅では結跏趺坐、あるいは半跏趺坐が正式だけど、正坐でも、胡坐(スクアーサナ)でも、とにかく坐った瞬間、それが正しく坐れていれば、それだけで体と心がどっしりと落ち着く。
坐禅とは、これだけの事だ。

一方、冥想は厄介だ。心(マインドあるいはチッタ)を何とかしなければならない。

私は、坐禅のシンプルさが好きだ。

 

熱中症とコロナ

今年の夏は、熱中症が心配されている。つまり、マスク着用が熱中症になりやすいと。

ところが、熱中症の症状がコロナの症状とよく似ていることで、紛らわしい。そういう注意を喚起するサイトがあった。
何が似ているかというと、「全身倦怠(けんたい)感、頭痛。吐き気や食欲がないといった消化器症状。筋肉痛、関節痛、発熱」である。
この文面を読んで、皆さんはどう感じるだろうか。
私は、セリエのGAS(汎適応症候群)を思い出した。

セリエは、「病気、そして毒や過労、人間関係の不和、けが、やけどなど刺激を受けるとその刺激に対して人間は、非特異的に反応する」というストレスの概念の基本を世に示した人だ。

ヨーガというのは、まさに様々なストレスに対して身心が疲弊していくのを非特異的に防ぎ、適応能力を高めるものだ。

このストレス学説は、西洋科学が産んだ概念だが東洋的な身心思想に通じる重要な学説だ。

ヨーガに興味を持って、これを続け、また人にもこれを伝えようとする人は、セリエの事を詳しく勉強しておく必要があるかと思う。
その理由の一つに、彼が最初に学生時代に抱いた疑問を最終的に解き明かしていく、姿勢と態度に感動を呼び起こすストーリーがあるからだ。これは、「生命とストレス」(ハンス・セリエ著、細谷東一郎訳、工作舎)に書かれている。
この本は、どんなことでも、研究し、探求をする人には、とても参考になると思う。

 

坐禅の半眼のこと

冥想をしているとき、時々気が付くと半眼になっていることがある。
ヨーガの冥想は閉眼である。半眼は、坐禅だ。

半眼になった時とは、どういう状態か。
体験から得た結論をいえば「抗重力筋がしっかり働いていながら、表情筋などがリラックスしている状態」だろう。「意識が明確で頭がすっきりとしているが、心はリラックスしている状態」ともいえよう。

このことから、2つの事が思い出された。

1.  ハタヨーガプラビティーカの4‐36,37,39に、開眼の冥想の事。4‐41には半眼の冥想の事が書いてある。
つまり、ヨーガの冥想は必ずしも閉眼ではないである。

2. 坐禅の半眼については平井富雄先生が昭和40年代(1970年頃)に、坐禅の脳波研究を詳しく行っている。
坐禅をしているときは、脳はリラックスとしてるが何かの刺激があると直ちに反応する。ヨーガの冥想の場合は、刺激に対して全くの無反応である。関心のある方は、「座禅の科学」(講談社、昭和57年)、坐禅健康法(ごま書房、昭和49年)を読まれるといいだろう。
また、開眼の冥想と閉眼の違いについては、有田秀穂と共著で書いたセロトニン呼吸法の本でも取り上げているので読んでいただきたい。

ヨーガ活動をする人は

何らかの形で、ヨーガを自分の活動の中に組み込んでいる人は、もしかすると、内面で何かの葛藤あるしは苦悩を抱えている人なのかもしれない。
そうでないと、真剣にヨーガに取り組めないような気がするのだ。ただ気持ちがいいとか、健康になったというだけなら、自分のヨーガを深めていこうという発想が生まれないだろう。自分のヨーガを深めようという熱意がなければ、人にヨーガを語る気持ちが起きにくいような気がする。
私自身がそうであるだけでなく、いろいろな人の話を聞いていてそのように思える。

 

忘れられたピースを埋める

私はなぜヨーガや仏教の歴史に興味があるのだろうか?
いつの時代でも、人は悩み、苦闘している、個人も社会も。
不安、恐怖、孤独、無力、絶望…。それらを乗り越えるために戦う人間の、内的努力から生まれた、答えがそこにあると考えるからだ。

ヨーガの古典で重要なものは、普通はヨーガスートラが第一に挙げられるだろう。少し興味を持っている人は、ハタヨーガプラビティーカ、バガバッドギーターを上げるに違いない。私もだいたいそのあたりから話を起こしている。

昨日、勝又まりさんの陰ヨーガの講義から思い当ることがあって、本山博著「密教ヨーガ」を開いていたら、ヨーガスートラとハタヨーガプラビティーカの間に、私が忘れていたヨーガの古典の事が書かれていた。
「ヨーガの古典には、忘れているピーズがあるなあ」と思い、エリアーデ著「ヨーガ① ② 」を探すと、たくさんある。

パズルのピースを一つづつ埋めてみたい。
今の私たちの悩みの答えの新たな一つが、そのピースの中にあるかもしれないからだ。

 

ヨーガとは魂の共感

技、技術、テクニックそういうものはどうでもいい。
知識、智慧、何にも要らない。
教えたり、教えられたりすることもいらない。

私は、昨日も講義をし、アーサナ、呼吸法、冥想の指導をしてきた。
そこには、魂の共感があっただろうか。

日本人の心の特長は三つある

ヘルマン・ホイヴェルスの随想集「人生の秋に」の中で、ふっと目に留まった言葉がある。
「いただく」「捧げる」「落ち着く」だ。

ホイヴェルズは次のように書いている。
「私は日本人の心の特徴は、次の日本語に表れているように思います。
「いただく」「捧げる」「落ち着く」の三つです。

彼はドイツ人、キリスト教の宣教師だ。1923年に来日し、関東大震災、第二次世界大戦を経験し、1977年なくなるまで、日本で宣教活動をしていた。
彼は日本人と接するうちに、キリスト教の中に東洋的な感性を統合していったのではないかと思う。

でも、今の日本人からは、こうした感性は失われつつあるのではないか。
コロナに恐怖し揺れ動く数々のニュースを見ていてそのように思われるのだ。

 

どうしたら攻撃的な言葉を使わないで済むだろうか

今、世の中にはアグレッシブな言葉があふれている。とりわけ、ネットの世界で強く感じる。心の中に潜む攻撃性は、自分ではそれと気が付かないまま、言葉として現れる。
こういう言葉を聞くと私はとても悲しくなる。

新コロナウイルスの問題でも、政治の問題でも、国際問題でも、経済の問題でも、おしなべて攻撃的な言葉であふれかえっている。
「何故なのか」とか「これがどんな結果を産むか」という事よりも、
このような心を胸の内に抱いている私たち人間の存在が、無性に悲しいのだ。

少なくとも、私自身の中にあるそのような心を静めていたい。
そのために、私はヨーガをする。呼吸法をする。
次の5時間ヨーガで取り上げようと考えている、アーナーパーナサチの研究もそうした試みのひとつだ。

 

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