智慧の書を読んで

知識は、言葉による説明を聴いたり読んでわかる。
智慧の書は、説明を聴いたり読んで、「わかった」と思うのは、わかっていない証拠だ。
すでに本当に分かっているときだけ、智慧の書を読んでわかるものだからだ。

知識は、行動とは関係ない。
智慧は、行動に結びつく。
智慧は、身心一如のものだからだ。

難しいのは、ここからです。
私たちはえてして、自分の知識を「智慧だ」と思っていることです。
「わかった」のほとんどは、わかっていないし、自分の智慧は行動に結びついていると思っていることのほとんどは、知識なので行動に結びついていないということです。

自分のものになった智慧は、それが知恵だとは考えていない。
そんな風に思ってもいない。

言葉として智慧が現れるのは、ふっとしたときに口をついて現れる。
無心の瞬間に、言葉として現れる。
そういうあらわれ方をする。

私は、このごろそのように思えてならないのです。