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知られざる変容

坐禅やヨーガのサンマヤ、チャクラの冥想その他、を行って強力な悟り体験や、冥想体験をし、人格変容したという話は、いろいろなところで語られるし、そういう体験をしたいと思うものだ。

しかし、ごく普通の生活を送る中で、多くの困難に遭遇したり、苦悩を繰り返す中で、素晴らしい人格を成長させた場合は、ほとんど知られることがない。

本人も気が付かないかもしれない。
でも、そういう人に出会ったとき、何かとても魅力を感じるのは、私だけだろうか。

折れるからこそ 大きくなる

こころが折れても、
なんど折れても、
立ち直る。
そして、さらに元気に生き抜いて行く。
命というものは、そう言う力を持っている。

 

心が折れちゃいけないようにと、
昔は、頑丈な心にするのがいいと、考えられていた。
今では、しなやかな心でしのぐのがいいと、考えられている。

でも、折れちゃうことってあるのじゃない?
折れたらどうしたらいいの。

立ち直ればいい。

ありのままの事実を土台にして、ありのままに立ち上がればいい。
それが命の力、
命の力に沿って歩むことをヨーガといい、道と言う。

「折れてもいいんじゃない!」
折れるからこそ、修復し、さらに力強く成長し、
美しい花を咲かせ、豊かな実りをもたらす。

折れるからこそ大きくなる。

折れるという事も能力の1つではないか。

菊芋は、
台風で根こそぎやられても、綺麗な花を沢山咲かせる。
そして、大きな芋を沢山つける。

「命って、相当な事があってもへこたれない。
へこたれても、立ち直る。そういう力を持っていいる」

野菜も、樹木も、なかなかにしぶといものだ。

まことの冥想はさり気ない

いつでもどこでも、普通の生活のなかで、
さり気なく冥想している。
自分も冥想していると思わないから、人から見ても冥想しているとは見えない。

そういう冥想が、まことの冥想ではないか。

私は、呼吸法と冥想、アーサナを日々行っている。
そして、それを教えてもいる。
また、ここのところ必要があって、ヨーガスートラにおける冥想の何かを追求してもいる。

そして、冥想というのは、特別な意識状態になるためのものという、皆の考えと同じ考えを持ちそれに疑問を持ったこともなかった。

そういう中で、禅とヨーガ、日本とインドの文化の底に流れるものが何か、整理して、スライド作成をしていた。
和歌俳諧、茶や花、弓道、蹴鞠、能狂言、日本文化の底流に流れるものを見ているうちに次のようなことに気が付いた。
これらに携わった来た人たちは、日常生活の中で「さり気ない冥想」をしている人たちだったということに。

それは、ヨーガにおける生活のヨーガ、つまりカルマヨーガと同じ精神でもあったと。
文化を比較すると、日本とインドでは驚くほど違う。共通点を見つけることは、至難の業だ。
でも、東洋の精神の中に、さり気ない冥想を見ることが出来ると気が付いた。

特別な意識状態になるのではなく、徹底した日常に生きる魂の営み。
それが、さり気ない冥想の中に表れているのだと、……

 

魂の願い

「ようやく審査が通りました」
彼の声は明るかった。
その声で私の心にも明るく光がともった。
希望を持つことって、何よりも大切なのではないか。
そんな思いが心をよぎった。

いつでもだれもが、腹に力が入り明るい声で話ができますように!

希望をもっているとき、誰でも容易に腹に力が入り、声は明るくなる。
先が見えず、苦しみぬいていた彼に、ようやくはっきりとした解決の道が示されたのだ。

では、苦難の道を歩んでいるときは、どうしたらいいのか。
何千年も前から、同じ答えが繰り返されている。

それは、
今、やるべきことをただやり続ける。
よくなることを信じ切る。
そして待つ。
苦しくてもつらくても、結果を先取りせず、今あるがままに、……。
ただ、心をそのように調えるのは難しい。
その時は、体から始めよう。
下腹と腰に力を入れて吐き切る。
そういう練習をすることだ。
いつでもどこでも、気が付いた時にそれはできる。

いつでもだれもが、腹に力が入り明るい声で話ができますように!

魂の願い2

(前回の続き。)

焦る心があった。どこかに苛立ちがあった。どこかに倦怠感があった。
それは、自我が「自分で何とか出来ることがある」と思い込む部分があったからだ。
本当に物事を進めている主体は、何か、あるいは誰か。
そのように自分に問いかけた時。
焦る心は消えた。苛立ちは消えた。倦怠感は消えた。

願いを捨てて、捨てて、捨てきって。……。
捨てたことも消えてなくなった先に、

願いはいのちを吹き返す。
自我が願っているときには、そのようにしなければならない。

これとは全く別の種類の願いがある。

真実の自己、真実の魂の願いだ。
自我が願うのではない。
願いを実現するのは、だから、自我ではない。
知られざるものだ。それを仮に大いなる魂と呼ぼう。

いつ魂が願いを起こし、いつそれが成就しているのか、自我には、意識されない。
願いを実現するための行動をしていても、自我が行動しているのではない。
ありのままに起きている事象がそこにあることを知るのみである。
それを智慧という。

ただひたすらに道を歩み続ける。
ただ、やるべきことをする。
只管打坐とはこのこと。
バガヴァッドギーターのいうヨーガとは、このこと。
それでいながら何もしていない。
絶対他力の世界だ。

私の願い

魂の求めるところに従って歩む人と共に歩む。

これが私の願い。
今日、日本で、世界でもかも知れない、自己の魂の求めるところに従って、淡々と歩み続ける人が、極めて少なくなっているように見受けられる。
理由は、いろいろあろう。詮索しても意味がない。
ただそのような事実があることをひしひしと感じるのだ。

私がここまで来たのは何のためだったのか。
「何のため」という目標はなかった。
ただ、魂の求めに応じてきただけだ。
人から見れば、無駄で、役に立たない歩み方かも知れない。

しかし、そのようにしか歩めない不器用な人が、ほかにもいるはずだ。
そういう人たちとともに、不器用でも確信をもって歩めたらと思う。

瞬間冥想

冥想の長短に価値の違いがない。
冥想の深さに価値の違いはない。

本来の自己は、冥想をしていても、していなくても、いつもここにある。

本来の自己は、冥想によって変化するものではない。

ありのままに今ここにあるというだけのものだから。

一瞬その自己に気が付く。一瞬のその自己のになり切る。

これを瞬間冥想という。

瞬間冥想を繰り返しているうちに、自我の変容が起きる。

自我の変容で、人生が変わって行く。

体操だけがヨーガではありません

ヨーガは、体操だけがヨーガではありません。

後悔なく生きるための方法の全てをヨーガといいます。

私は、次のように考えるのです。
昔インドには、今でもそうですが、インドにはさまざまな宗教や人生哲学があった。
それぞれには、後悔なく生きるための理論と方法、つまり冥想や呼吸法、マントラやタントラなどがあった。

生活の智慧やその中には何かを成し遂げるための心構えなども含まれていた。
そういう理論と方法とをおおざっぱに、ヨーガという言葉で表したのではないか。

それがやがて、サーンキャ哲学の枠組みの中で、一つの用語としての意味付け、定義付けが行われた。
一般の人にも分かる形で、詩として語られたものが、バガヴァッドギーターではないか。ギーターとは、詩という意味を持つ。
そして、バガヴァッドギーターは、マハーバハーラタの中に組み込まれた。

何千年もの間いつでも、何億人という人たちが、喜んだり苦しんだり悩んだりしている。そうした人生模様を代表してバーラタ族の人たちの生きざまを通じてつくられた叙事詩が、マハーバハーラタだった。この叙事詩には、後悔なく生きるためのの工夫が込められていたのだ。
つまりマハーバーラタには、サーンキャ哲学と生きるための智慧であるヨーガが織り込まれていた。

そういうすべての中から、生理学的な、体操的なヨーガが生まれた。
ハタヨーガだ。
生理学的な、体操的なヨーガにも、いろいろなものがあった、浄化法、食事法、チャクラやナーディーといったことを通じての冥想もあった。
やがて、そういうものを集めて、百科事典のようなものが造られた。
それが、例えばハタヨーガプラビティーカなどである。

というわけで、体操のヨーガは、とても役に立つヨーガであるが、それがすべてではないということをご理解していただけたらと思う。

アーサナや呼吸法やらをたくさん覚える必要はない

私がつくづく思うことは「自分が、魂が求めるままに、行ってきたこと、気が付いたこと、方法、そういうことは、ヨーガの古典を読んでいると、どこかに書いてある」ことだ。

修業時代から今日まで、あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、時にはせき止められたり、滝となって落ちたり、そういう中で、魂が学んで来たことは、先哲もまた、そのように学んだのかもしれない。

そして、誰もがそのように学ぶのかもしれない。

だから逆に、高度な技術は役に立たない。
ハタヨーガプラビティーカの一節ずつ、読み進むうちにそのように思った。
「古典には、自分の人生にとって、魂の喜びにとって、無駄な言葉や技術もたくさん入っている」と。

スマホやパソコンの中には、たくさんのソフトウエアー、最近はやりの言葉でいえばアプリが入っている。たいていの人は、その中のいくつか、自分が使ういくつかしか動かさない。そのほかのアプリは自分にとって、無駄以外の何物でもない。

ヨーガの技術も同じだ。
魂の求めるものは、そんなに多くはない。

次々と新しい、アーサナや呼吸法、浄化法、冥想法を覚えたり、まして人に教えるなどということは、およそ意味がない。
なぜなら、一人一人がそれぞれに魂の求めに従っていれば、それぞれ自然にそういう技を使っているものだから。

本を読めることの幸不幸

「お前は、本を読んてはいけない」と師に言われたことがある。
20代前半だった。
「傲慢になるだけだ」
ということだった。
それで、2年半ぐらい禁止状態が続いた。

掃除をして、ヨーガをして、坐禅をして、作務をして、……。
それしかしなかった。
そのころ、私が何をしても、何も言っても「違う」と、師に否定された。

無我夢中でもがいた。
そこでつかんだことは「最も大切な物事の本質は、自己の外から得られるものではない」ということだった。
「大切なことは、もともと自分は知っているということ」
それは、どんな人においても同じ、文字で書いてあることは、そういうことに過ぎない。

智慧というものは、そういうものだ。

人生を豊かにするための読書というものは、自分がすでに分かっていることの再確認をするということなのだ。

このことが分からないで読書すると、傲慢さの上塗りを重ねているだけとなってしまう。
つまり、智慧ではなく、知識でしかなくなってしまう。
知識をたくさん蓄えると、自分が偉くなったような気がして、それを人にも言いたくなってしまう。

昔以上に、今書物が充実している。素晴らしい言葉がたくさんある。
それが、自分の傲慢さの拡大を増長していないか。
よくよく、反省しながら読書をして欲しい。
今の若い人たちは、私のあのころ以上に、豊かな知識に恵まれているのだから……。

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