Category Archives: 無心

魂の願い

「ようやく審査が通りました」
彼の声は明るかった。
その声で私の心にも明るく光がともった。
希望を持つことって、何よりも大切なのではないか。
そんな思いが心をよぎった。

いつでもだれもが、腹に力が入り明るい声で話ができますように!

希望をもっているとき、誰でも容易に腹に力が入り、声は明るくなる。
先が見えず、苦しみぬいていた彼に、ようやくはっきりとした解決の道が示されたのだ。

では、苦難の道を歩んでいるときは、どうしたらいいのか。
何千年も前から、同じ答えが繰り返されている。

それは、
今、やるべきことをただやり続ける。
よくなることを信じ切る。
そして待つ。
苦しくてもつらくても、結果を先取りせず、今あるがままに、……。
ただ、心をそのように調えるのは難しい。
その時は、体から始めよう。
下腹と腰に力を入れて吐き切る。
そういう練習をすることだ。
いつでもどこでも、気が付いた時にそれはできる。

いつでもだれもが、腹に力が入り明るい声で話ができますように!

魂の願い2

(前回の続き。)

焦る心があった。どこかに苛立ちがあった。どこかに倦怠感があった。
それは、自我が「自分で何とか出来ることがある」と思い込む部分があったからだ。
本当に物事を進めている主体は、何か、あるいは誰か。
そのように自分に問いかけた時。
焦る心は消えた。苛立ちは消えた。倦怠感は消えた。

願いを捨てて、捨てて、捨てきって。……。
捨てたことも消えてなくなった先に、

願いはいのちを吹き返す。
自我が願っているときには、そのようにしなければならない。

これとは全く別の種類の願いがある。

真実の自己、真実の魂の願いだ。
自我が願うのではない。
願いを実現するのは、だから、自我ではない。
知られざるものだ。それを仮に大いなる魂と呼ぼう。

いつ魂が願いを起こし、いつそれが成就しているのか、自我には、意識されない。
願いを実現するための行動をしていても、自我が行動しているのではない。
ありのままに起きている事象がそこにあることを知るのみである。
それを智慧という。

ただひたすらに道を歩み続ける。
ただ、やるべきことをする。
只管打坐とはこのこと。
バガヴァッドギーターのいうヨーガとは、このこと。
それでいながら何もしていない。
絶対他力の世界だ。

私の願い

魂の求めるところに従って歩む人と共に歩む。

これが私の願い。
今日、日本で、世界でもかも知れない、自己の魂の求めるところに従って、淡々と歩み続ける人が、極めて少なくなっているように見受けられる。
理由は、いろいろあろう。詮索しても意味がない。
ただそのような事実があることをひしひしと感じるのだ。

私がここまで来たのは何のためだったのか。
「何のため」という目標はなかった。
ただ、魂の求めに応じてきただけだ。
人から見れば、無駄で、役に立たない歩み方かも知れない。

しかし、そのようにしか歩めない不器用な人が、ほかにもいるはずだ。
そういう人たちとともに、不器用でも確信をもって歩めたらと思う。

瞬間冥想

冥想の長短に価値の違いがない。
冥想の深さに価値の違いはない。

本来の自己は、冥想をしていても、していなくても、いつもここにある。

本来の自己は、冥想によって変化するものではない。

ありのままに今ここにあるというだけのものだから。

一瞬その自己に気が付く。一瞬のその自己のになり切る。

これを瞬間冥想という。

瞬間冥想を繰り返しているうちに、自我の変容が起きる。

自我の変容で、人生が変わって行く。

マインドフルネスと無心

どうも、欧米思想では、無とか、空ということを受け入れにくいのではないか。
心を無にするとか、無心になるということに不安を感じるのかもしれない。

それで、心を満たすことを求めている。
マインドフルにしようということだ。

悩みや不安があったとする。
そこから、解放されるには、

いったん、悩みの対象に対する意識を捨てなければならない。
対象に対する意識を捨てて、いったん、心を自分の体に引き戻すこと。

このことで、少し心が落ち着く。これをマインドフルネスというようだ。

でも、それは、次に進まなければならない。

次とは、マインドフルにした心を捨てるということだ。
それが、無心になるということ。
そして、無心を深めていくことが、東洋の智慧だ。

わかる

わかる。

答えが分かる。

おのずとわかる。

感じるのでも、知るのでも、把握するのでもなく、わかる。
分かった通りに行えばいい。

ただわかる。
それ以上でもなく、それ以下でもない。
現成する。
何かが現成する。
それをわかるという。

それは、どこからかわからない、どこかから意識の上にやってくる。
あらゆる問題の答えは、いつでもそこにある。
そこにあるけれども、そこというところはない。

自分に降りかかるすべての問題の答えが、そこにある。

でも、答えのすべてが今、現成することはない。

自分にとって今、必要な答えだけが、必要な瞬間に現れる。
その瞬間のことをという。
に任せて大安心をして、今、行うべきことを唯行っていればいい。

に応じて動き。
に応じて語り。
に応じて休む。
に応じて食べる。

それがわかるということ。
わかるためには、感性を鋭くしていなければならない。
大安心をして、感性に任せる。
そのために、呼吸術がある、そのためにヨーガがある。

そこにはヨーガはない

ヨーガをしている写真を見ながら、はっと気が付きました。
「そこにはヨーガはない」と。

「ヨーガなんてどこにもないんだ」と、気が付かなければいけなかったのです。
今ヨーガをしている。でも、それはヨーガではない。
だからヨーガなんだ。

そういうことに気が付かなければいけなかったのです。

今ヨーガの本を書いているのですが、書いていながらヨーガの本ではないということに気が付いていないといけなかったのです。

ヨーガをしてはいけません。
ヨーガをしなければそれがヨーガとなります。

変なこと、理解しがたいことを今書いたように思われるかと思います。
これが、パタンジャリのヨーガスートラの冒頭にある。
「ヨーガとは、心の働きを止めることである( योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः )」のいうところでしょう。

意識は明晰でありながら、働いていない。
無心。

これは、人に伝えるものではないし、伝えられるものでもない。
教えたり、教えられたり、そんなことは、土台無理なのです。

こんな風に書くと、自分のヨーガ教室ばかりか、世界中のヨーガ教室は、ヨーガ教室ではなくなります。
そこに、ヨーガの楽しさがあるんだなと思います。

 

魂の求め

「私が何をやっても、それはヨーガである。」というとき、
それは「私の魂が求めていること」に、素直に従っているときだ。

心の奥底から湧き上がってくる魂の求めていることだ。
「やるぞ」と、心に力を入れてやることではない。

それは、自然でとても楽な私の活動である。
魂という言葉を使いたくなければ、命そのもの。存在そのものの声だ。

達人の心

武道の達人は常に平常心を維持していると考えられます。
けれども我々凡人には平常心を持ちたくないと願っています。

凡人は、いつも特別な心でいたいと願っています。
「いつも喜んでいたい」
「いつも幸福でありたい」
「いつも満足していたい」
「感動しつづけていたい」……。

凡人は、特別な心の状態をいつも願っています。
「悟りたい」とか深い冥想体験を求めたりするのも、特別な心の状態を求めているのと同じです。

凡人はだから、自分の平常心を否定して生きているのかも知れません?

しかし、いつどんなときでも平常心ででいられることは、至難の業だと思います。
このような至難の業を身に着けたいと思います。

平常心が維持されている時には「これが平常心だ」という意識は、静かに消えていると考えられます。
これを別の言い方をすれば無心ということになります。
無心は、特別な心を指しているのではないのです。

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