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禅・ヨーガで人間力の涵養

「ここのようなサワラ並木は世界に一つしかない」
諏訪湖畔にある小坂観音院の中島住職は、いう。
今月も、28日の朝、6時からここでヨーガをした。
青空ヨーガのはずだったが、今日はあいにく雨で、庫裏で行った。

ヨーガのあと聞こえてくる雨音に耳を傾けていると、涵養というコトバが思いだされた。
雨水は、静かに大地に染み込みやがて、泉から湧き出、集まって大河となり海へ注がれる。
あるいは、草木を養い育てる。

ここのサワラもそのようにして、400年、500年かけて育ち、巨木となったにちがいない。
住職の話では、今日、このようなサワラ並木を持つ寺院は、管理が大変なこともあり駐車場にするなどで多くが伐採されて、ほとんど残っていないとのことである。

いま苗を植えて同じ並木を作ろうとすると、400年、500年かかるのに、簡単に伐採してしまう風潮を住職は嘆いているのだ。

植物を力づくで育てることは出来ない。植物が意図して育つわけでもない。
彼らは、今の生を十全にまっとうしているだけだ。

涵養というコトバの意味は、このように自然の恵みをいただきながら、精一杯生きるうちに、いつの間にか育てられて今の自分に到達することに違いない。

人が、このような道を歩むことをヨーガと言い、禅という。
私が提唱している禅、ヨーガとはこういうものだ。

筑波大学大学院共通科目(GGEC)のサイトに「本学の大学院生が多くの科目を履修し,奥深い思想や哲学を感じ取って,自己の専門性の上に豊かな教養と倫理観を身につけ,バランスのとれた研究者や高度専門職業人となるべき「人間力の涵養」に役立てるよう期待しています。」とある。
ヨーガは、この目的にぴったりな人間の営みだと、私には思えてならないのだ。

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「禅をする」「ヨーガをする」それは自分探しの営み

「禅をする」「ヨーガをする」それは自分探しの営み。

夜中、寝ているときにこの言葉が頭のなかに現れていた。
目を覚まして、忘れないうちにとメモを書いた。

目を覚まして読むと、いつも自分の中にある考えで、取り立ててどうということもないこの言葉。
だけど、なんで今さら夢にと思った。
が……。

11月25日、26日に行う、成田ヨガスタジオ主催の「オリエンタルヨーガ ジャパン」のチラシを昨夕から仕上げ調整に入り、プリントアウト、発送を今朝修了。

その後、ずっと気がかりだったことをきちんと見ようと思い、佐保田鶴治先生の「ヨーガ根本経典」2冊で、古典的アーサナの確認をした。
やはり、古典的ハタヨーガには、立位のアーサナは殆どない。いわゆる立木のポーズと、よくわからないが立位らしいアーサナが、1,2見つかっただけだ。
臥位のアーサナも多いが、坐位のアーサナが際立って多い。

その他、今追求中なので、まだ詳しく書けるところまできていないけれども、ヨーガの目的は欧米文化の影響を受けて、19世紀末から20世紀初頭頃に始まり今日までに、健康法、健康体操に変容してきていると、思えてならない。
こんにち、インドもヨガブームである。
このインドヨガも欧米の動きに追従したきらいがあり、今日急速に欧米の価値観の方向へ変容してしまっていると、考えざるを得ない。
残念だが、……。


もちろん、本物のインドヨーガは健在なことは、よく理解している。私は、インドが大好きだから、そこのところはつかんでいるつもりである。
しかし、最近の様子を見ていると、インドですら健康体操というだけのヨーガが急激に拡大していることがうかがわれるのだ。
アジア的な感性が希薄化しているのは、日本だけでなく、インドでも感じられることが残念なのだ。

そうした中で、松元頼子さんと私は「日本のヨーガを世界に提唱しようではないか」という話になり、頼子さんが企画してくれたのが「オリエンタルヨーガ ジャパン」だ。

日本の風土が生み出したヨーガがあっていいのではないか。
というか、すでにある。

それが、私たちの立場だ。

 

感性にしたがう

健康法に関する話題の中でしばしば出てくることがある。

それは、その健康法の理論によって「こうするのが正しい方法だ」「これが、最高にいい」「こうしてはいけない」という内容のことである。

そういう中で「玄朴さんはどんなものを食べているか」と聞かれることがある。
私は、食べ過ぎないこと。量の目安は、次の食事までにおなかが空くていど。
できるだけ野菜をたくさん、最初に食べてからほかのものを食べること。
という二点だけ心掛けている。そのほかのことは、ほとんど気にしていない。
細かい理論や、理屈から入ると、身心の柔軟性がなくなっていくように思えるのだ。

何をどのようにとか、また細かいことは自分の感性に任せている。
自分自身の中に、すべてを知っている存在がある。
静かに、耳を澄ませていれば、その声が聞こえる。

その声を素直な気持ちで聞けるようにする練習。
その一つが、何をどう食べるかということの一つだと、自分では考えている。
健康のためにではなく、自分に素直になるための練習として食のことも、運動のことも、睡眠のことも。

最近は、その声に逆らってしまうことが、大分少なくなってきている。
これが、ヨーガの道なのではないだろうか。

小さなことが大きくなる

当たり前に流れている今日のできことでも、あるいは特別に企画したイベントにおいてでも、
そのことが予想していた通りに運んだか、うまくいったかどうか。

そういうことは、誰でも気になることと思います。

そして、起きたことは一つの結果として、良くも悪くもそれなりに重く受け止めることは、もとよりのことでしょう。

ところが、小さな出来事、本当に何でもないと思えるような事が、後から起きる一連の大きな流れの始まりである、ということが意外にしばしば起きるものです。

初めて会って、簡単な挨拶をしただけの人と、いつの間にか深いつながりができて、それが大きなことに発展していくということは、それほどまれなことではない、ということを近頃つくづく思います。

そうしたことから、改めて、
「『小さなことを、何気ない、無視していいような些細なことを大切にする。それが将来を分けることにつながる。』
そのように自覚して、感性を研ぎ澄ましながら、一つ一つを大切にしていきたい」と思うようになりました。
こういうことが、生活のヨーガの一つだと思えるのです。

バガヴァッド・ギーターを読む カルマヨーガ

私たちの心の中に、いいことをしているという自惚れがあると、
正しいことをしているという自惚れがあると、
その結果を、見返りを、求めることになります。

バガヴァッド・ギーターで繰り返し説いている「行為の結果を捨てよ」ということは、
自惚れが消えた状態になりなさいということかもしれません。
淡々と行うとか、
自然でありのままに生きるとか、
そういうことは、自惚れが消えている状態でしょう。

カルマヨーガの難しさ、困難さは
そのような自分を素直に見つめて、
生活行動を、心を、調えて生きることにあるのかもしれません。

魂の求め

「私が何をやっても、それはヨーガである。」というとき、
それは「私の魂が求めていること」に、素直に従っているときだ。

心の奥底から湧き上がってくる魂の求めていることだ。
「やるぞ」と、心に力を入れてやることではない。

それは、自然でとても楽な私の活動である。
魂という言葉を使いたくなければ、命そのもの。存在そのものの声だ。

静寂で平和な心

ヨーガや呼吸法をしていると、すーっとあたりが静かになり、いつの間にか静寂で平和な心に浸されている自分に気がつく。

普段の何気ない生活行動の中でも、しばしばこのような心に包まれる。
そういう時間が最近増えて来た。

この静寂で平和な心に包まれているとき、今朝、ふっと気がついた。
それは、「リラックスとか癒やしとか言うこととこれは、まったく異質なものだ」ということである。

まだしっかり説明できないのだが、リラックスとか癒やしとかには、「自分がリラックスしている」とか「自分が癒された」という自我意識が明確にある。

ところが、静寂で平和な心に浸されているときは、「辺り一面と溶け合った自分がいる。辺り一面が静寂で平和だからそれと共鳴して自分も静寂で平和である」あるいは、「辺り一面と自分とが同時に静寂で平和なのだ」という心のあり方である。

自分という言葉を使ったが、強烈に自己を主張する自我意識ではなく、いつも世界と共鳴している自分である。
このようなことをなんとなく感じ始めたのは、大学院のヨーガコースで、自分は立って、冥想を指導しているときだった。
呼吸の仕方、心の置き方を説明していながら、
いきなり、静寂で平和な世界に立っている自分がここにいたのだ。
それから、同じようなことがしばしばある中で、だんだん日常の生活行動の間にもこの感覚が浸透してきた。

ॐ शान्तिः शान्तिः  शान्तिः |
OM shaantih shaantih shaantih.

達人の心

武道の達人は常に平常心を維持していると考えられます。
けれども我々凡人には平常心を持ちたくないと願っています。

凡人は、いつも特別な心でいたいと願っています。
「いつも喜んでいたい」
「いつも幸福でありたい」
「いつも満足していたい」
「感動しつづけていたい」……。

凡人は、特別な心の状態をいつも願っています。
「悟りたい」とか深い冥想体験を求めたりするのも、特別な心の状態を求めているのと同じです。

凡人はだから、自分の平常心を否定して生きているのかも知れません?

しかし、いつどんなときでも平常心ででいられることは、至難の業だと思います。
このような至難の業を身に着けたいと思います。

平常心が維持されている時には「これが平常心だ」という意識は、静かに消えていると考えられます。
これを別の言い方をすれば無心ということになります。
無心は、特別な心を指しているのではないのです。

母なる呼吸法

呼吸法とは、呼吸を意識して行う方法の事です。

ヨーガには、たくさんの呼吸法があります。導引術や気功法にも多様な呼吸法が知られています。古武道などで伝えられている日本の呼吸法たとえば丹田呼吸法もあります。

私は、すべての呼吸法を知っているわけでもないし、マスターしようとしたわけではありませんが、多くの呼吸法を練習するうちに、どの呼吸にしても実際には、呼吸に関するすべての筋肉が使われていることに気が付きました。

すべての呼吸筋を意識的に使う呼吸法をヨーガでは完全呼吸法(यौगिक श्वसन ヨーギク シュワサン)といいます。そして、この完全呼吸法がすべての呼吸法の母なる呼吸法ではないかと思うようになりました。

そして、この母なる呼吸法をしっかりできるようになると、様々な呼吸法をマスターするのが容易なことも体験しました。

 

そして、母なる呼吸法の要(かなめ)は、下腹を絞って吐くことにあることにも気が付いたのです。

これが、「ここ一番に強くなるセロトニン呼吸法」の原点の呼吸法でした。そして、私のこの考え方は今日まで、変わりません。

資格ってなんだろう

昨日、「このヨーガコースを終了したらその人に、インストラクターの資格を与えますか」と、問われました。

「うーーーーーん」私は答えに窮した。
資格とか、証書を欲しいと言われることがある。そして年単位で何回も講義と実習を受けた人に、そのようなものを書いてあげることがある。
一番最初はずいぶん昔のことだが「放送大学で『地域の公民館などで行われている教室に一定期間参加した人には、体育の単位の習得を認められる』とか言うことで、頼まれて書いた。
整体とかカイロなどの治療師をしている人に頼まれて、書くこともある。仕事に役立つらしい。

紙切れだけど、それがなにかの役に立てばと思う。
世の中には、ヨーガ教室ばかりでなく、いろいろな資格がある。
学校を卒業したとか、医者とかの資格など数えだしたらキリがない。
それらは、みんな人に認められるから、欲しいのだと思う。

そういうものは「あってもなくてもいい」と本当に思うまで何十年かかったろうか、ずいぶん年月が必要だったように思う。

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