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資格

資格を捨てることが出来て、始めて資格は獲得されたことになる。
資格を与えるものは、未熟だから、資格を与えることが出来る。

本当に資格を持つものは、ひとに「資格を欲しい」と言われても「そんなものは、どこにもない」と、当たり前に言えるに違いない。

私は、ヨーガやそれに関係するいかなる意味の資格も、普通云う意味で持ったことはない。
なのに、資格を欲しいと言われると「それならこうすれば、資格証明書を出してもいいよ」ということがある。
それは、私が極めて未熟な証拠である。
少なくとも「そんなものは、世界中どこを探しても、あるわけがない」どうしても欲しければ「ほかを当たることだ」と、さらりと言えるようになりたい。

これは、最小限の希望だ。
これすら超越したところが地平線のぎりぎりのところにようやく見え始めた。

 

瞬間冥想

冥想の長短に価値の違いがない。
冥想の深さに価値の違いはない。

本来の自己は、冥想をしていても、していなくても、いつもここにある。

本来の自己は、冥想によって変化するものではない。

ありのままに今ここにあるというだけのものだから。

一瞬その自己に気が付く。一瞬のその自己のになり切る。

これを瞬間冥想という。

瞬間冥想を繰り返しているうちに、自我の変容が起きる。

自我の変容で、人生が変わって行く。

体操だけがヨーガではありません

ヨーガは、体操だけがヨーガではありません。

後悔なく生きるための方法の全てをヨーガといいます。

私は、次のように考えるのです。
昔インドには、今でもそうですが、インドにはさまざまな宗教や人生哲学があった。
それぞれには、後悔なく生きるための理論と方法、つまり冥想や呼吸法、マントラやタントラなどがあった。

生活の智慧やその中には何かを成し遂げるための心構えなども含まれていた。
そういう理論と方法とをおおざっぱに、ヨーガという言葉で表したのではないか。

それがやがて、サーンキャ哲学の枠組みの中で、一つの用語としての意味付け、定義付けが行われた。
一般の人にも分かる形で、詩として語られたものが、バガヴァッドギーターではないか。ギーターとは、詩という意味を持つ。
そして、バガヴァッドギーターは、マハーバハーラタの中に組み込まれた。

何千年もの間いつでも、何億人という人たちが、喜んだり苦しんだり悩んだりしている。そうした人生模様を代表してバーラタ族の人たちの生きざまを通じてつくられた叙事詩が、マハーバハーラタだった。この叙事詩には、後悔なく生きるためのの工夫が込められていたのだ。
つまりマハーバーラタには、サーンキャ哲学と生きるための智慧であるヨーガが織り込まれていた。

そういうすべての中から、生理学的な、体操的なヨーガが生まれた。
ハタヨーガだ。
生理学的な、体操的なヨーガにも、いろいろなものがあった、浄化法、食事法、チャクラやナーディーといったことを通じての冥想もあった。
やがて、そういうものを集めて、百科事典のようなものが造られた。
それが、例えばハタヨーガプラビティーカなどである。

というわけで、体操のヨーガは、とても役に立つヨーガであるが、それがすべてではないということをご理解していただけたらと思う。

マインドフルネスと無心

どうも、欧米思想では、無とか、空ということを受け入れにくいのではないか。
心を無にするとか、無心になるということに不安を感じるのかもしれない。

それで、心を満たすことを求めている。
マインドフルにしようということだ。

悩みや不安があったとする。
そこから、解放されるには、

いったん、悩みの対象に対する意識を捨てなければならない。
対象に対する意識を捨てて、いったん、心を自分の体に引き戻すこと。

このことで、少し心が落ち着く。これをマインドフルネスというようだ。

でも、それは、次に進まなければならない。

次とは、マインドフルにした心を捨てるということだ。
それが、無心になるということ。
そして、無心を深めていくことが、東洋の智慧だ。

湯治ヨーガ

今年は、温泉に入ったりヨーガを指導したりということが2回ほどあった。
気にもとめずに居たのだけれども今夜、自宅でゆったりと風呂に浸かりながら、一つ思いついた。

日本には、あんまというのはあるが、アーユルヴェーダやアロマオイルのマッサージのようなものは、なかったんじゃないか。
昔から、湯治と言うのがある。
これで、多くの病気が治っていた。
これが、日本の医療の本質ではないか。

マッサージだけでなく、色々な手技がある。
針灸というのもある。
こうした手技は、誰かに施術してもらわないと成り立たない。

ところが、湯治は、一人ゆったりと湯舟につかるだけだ。
砂風呂なんて言うのも同じだろう。
温泉では、湯舟に浸りながら、のんびりとおしゃべりをしてもいい。

ヨーガと共通するのは、一人でできるということだ。
アーサナを一通り覚えてしまえば、難しい理論も、技術も習得する必要はない。

現代は、湯治に何週間、何ヶ月を使うという心のゆとりがない。
その分をヨーガと組み合わせれば、単日時で出来る。

来年は、こうしたイベントをしようかな。

わかる

わかる。

答えが分かる。

おのずとわかる。

感じるのでも、知るのでも、把握するのでもなく、わかる。
分かった通りに行えばいい。

ただわかる。
それ以上でもなく、それ以下でもない。
現成する。
何かが現成する。
それをわかるという。

それは、どこからかわからない、どこかから意識の上にやってくる。
あらゆる問題の答えは、いつでもそこにある。
そこにあるけれども、そこというところはない。

自分に降りかかるすべての問題の答えが、そこにある。

でも、答えのすべてが今、現成することはない。

自分にとって今、必要な答えだけが、必要な瞬間に現れる。
その瞬間のことをという。
に任せて大安心をして、今、行うべきことを唯行っていればいい。

に応じて動き。
に応じて語り。
に応じて休む。
に応じて食べる。

それがわかるということ。
わかるためには、感性を鋭くしていなければならない。
大安心をして、感性に任せる。
そのために、呼吸術がある、そのためにヨーガがある。

アーサナや呼吸法やらをたくさん覚える必要はない

私がつくづく思うことは「自分が、魂が求めるままに、行ってきたこと、気が付いたこと、方法、そういうことは、ヨーガの古典を読んでいると、どこかに書いてある」ことだ。

修業時代から今日まで、あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、時にはせき止められたり、滝となって落ちたり、そういう中で、魂が学んで来たことは、先哲もまた、そのように学んだのかもしれない。

そして、誰もがそのように学ぶのかもしれない。

だから逆に、高度な技術は役に立たない。
ハタヨーガプラビティーカの一節ずつ、読み進むうちにそのように思った。
「古典には、自分の人生にとって、魂の喜びにとって、無駄な言葉や技術もたくさん入っている」と。

スマホやパソコンの中には、たくさんのソフトウエアー、最近はやりの言葉でいえばアプリが入っている。たいていの人は、その中のいくつか、自分が使ういくつかしか動かさない。そのほかのアプリは自分にとって、無駄以外の何物でもない。

ヨーガの技術も同じだ。
魂の求めるものは、そんなに多くはない。

次々と新しい、アーサナや呼吸法、浄化法、冥想法を覚えたり、まして人に教えるなどということは、およそ意味がない。
なぜなら、一人一人がそれぞれに魂の求めに従っていれば、それぞれ自然にそういう技を使っているものだから。

本を読めることの幸不幸

「お前は、本を読んてはいけない」と師に言われたことがある。
20代前半だった。
「傲慢になるだけだ」
ということだった。
それで、2年半ぐらい禁止状態が続いた。

掃除をして、ヨーガをして、坐禅をして、作務をして、……。
それしかしなかった。
そのころ、私が何をしても、何も言っても「違う」と、師に否定された。

無我夢中でもがいた。
そこでつかんだことは「最も大切な物事の本質は、自己の外から得られるものではない」ということだった。
「大切なことは、もともと自分は知っているということ」
それは、どんな人においても同じ、文字で書いてあることは、そういうことに過ぎない。

智慧というものは、そういうものだ。

人生を豊かにするための読書というものは、自分がすでに分かっていることの再確認をするということなのだ。

このことが分からないで読書すると、傲慢さの上塗りを重ねているだけとなってしまう。
つまり、智慧ではなく、知識でしかなくなってしまう。
知識をたくさん蓄えると、自分が偉くなったような気がして、それを人にも言いたくなってしまう。

昔以上に、今書物が充実している。素晴らしい言葉がたくさんある。
それが、自分の傲慢さの拡大を増長していないか。
よくよく、反省しながら読書をして欲しい。
今の若い人たちは、私のあのころ以上に、豊かな知識に恵まれているのだから……。

そこにはヨーガはない

ヨーガをしている写真を見ながら、はっと気が付きました。
「そこにはヨーガはない」と。

「ヨーガなんてどこにもないんだ」と、気が付かなければいけなかったのです。
今ヨーガをしている。でも、それはヨーガではない。
だからヨーガなんだ。

そういうことに気が付かなければいけなかったのです。

今ヨーガの本を書いているのですが、書いていながらヨーガの本ではないということに気が付いていないといけなかったのです。

ヨーガをしてはいけません。
ヨーガをしなければそれがヨーガとなります。

変なこと、理解しがたいことを今書いたように思われるかと思います。
これが、パタンジャリのヨーガスートラの冒頭にある。
「ヨーガとは、心の働きを止めることである( योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः )」のいうところでしょう。

意識は明晰でありながら、働いていない。
無心。

これは、人に伝えるものではないし、伝えられるものでもない。
教えたり、教えられたり、そんなことは、土台無理なのです。

こんな風に書くと、自分のヨーガ教室ばかりか、世界中のヨーガ教室は、ヨーガ教室ではなくなります。
そこに、ヨーガの楽しさがあるんだなと思います。

 

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