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思い込みを捨てる

「アーサナができるようになった」「病気が治った」などというときの「できる」とか「直る」という言葉を単純に考えがちですが、「自分ができた」というときの「できた」「治った」の意味が、ほかの人の「できた」「治った」とは、必ずしも同じではありませんね。

しかし私たちはつい、「自分と人は同じ考え方、同じ単語には同じ意味で使っている」と、思い込んでいるものですね。

このことを静かに反省させてくれる文章に出会いました。

医療ジャーナリスト・北村昌陽氏が味わった“世界観の転換” です。

このことの真の理解は、ヨーガを追求するうえで、とても大切なことだと思いました。

 

君の魂は何を選び、いかに実行し続けるのか?

「君の魂は、何を選ぶのか? いかにそれを行い続けるのか? 私は無時間(無限時空)の世界で、それを見守っている。」
バガヴァッドギーターで、クリシュナが今語るであろうことを要約すると、こうなるに違いない。

“What does your Soul choose? How do you keep doing it? I am watching over it in a timeless (infinite space-time) world.” To summarize what Krishna would say now in Bhagavad Gita, it must be.

常のヨーガにあらず 常の名にあらず

ちょっと遊んでみました。
老子「道徳教」をヨーガに当てはめたらどうなるだろう。

人がヨーガだというヨーガは、ヨーガではない。
アーサナだというべきものは、アーサナとは呼ばない。

アーサナだと名付けるものはない。
名前がないところが、ヨーガの始まりだ。

名前を付けると、アーサナは無数にできてくる。

ヨーガで何かしようなどという欲望がなければ、妙なる本質を見るし、
欲望があるとアーサナという形体を見ることになる。

本質と形体は、もともと同じだけれど違って名付けられる。

その同じものを玄という。
しかし、玄というとまた二つに分かれてしまう、だから玄の玄を追求する。
そこに、妙なる本質への入り口がある。

道徳教は、どう書いてある?  
「道の道とすべきは、常の道に非ず。
名の名とすべきは、常の名に非ず。
名無きは天地の始め、名有るは万物の母。
故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の微(きょう)を見る。
その両者は、同じきに出でて而も名を異にする。
同じきをこれ玄と謂い、玄の又玄は衆妙の門なり。

他にどんな書き換えができるかな……。

 

こだわらない心

自分の抜け殻にこだわる動物はいない。
蛇でも昆虫でも、抜け殻はもう自分の一部ではないからだ。
ところが、人間は違う。
つい、業績、実績などにこだわってしまう。

他人もそうだ、人の実績を評価する。
それは抜け殻を評価するようなものだ。
評価される方はうれしいし、ありがたい。
資格が得られたり、収入が増えるからだ。

そして、抜け殻を抱えていると、だんだん重くなる。
重さに耐えられなくなる人もいるだろう。
虚しさを感じる人もいるだろう。
でも、どうしてもこだわりを捨てられないのだ。

でも、新しいものを次々に創っていく人は違う。
抜け殻なんて、忘れるからだ。
なぜ?
創ることは、喜びだから……。

 

やっぱり呼吸法

3月に折居由加さんに頼まれて、ある掲示板に出すために作った画像です。
さっき電話で話していて、思い出しました。これで書いたことはシンプルですが、最も基本で大事なことだと、今でも考えています。

深さ

        深さ
深さのない生涯はさびしい
カントはその町以外に
ただ一歩も踏み出さなかった
キリストの伝道区域は
わずかに方二里であった
あえて問う、活動とはなんの謂(いい)ぞや
あれをみよ深山(ミヤマ)の奥に花ぞさく
       まごころつくせ人知らずとも
人生はひろさよりも深さである
                                      (後藤静香著、権威より)

コロナ時代に、改めて考えています。
ついでに、もう一つ後藤静香の言葉をご紹介します。

必ず変わる
三日でも変わる
三年たてば
見違えるほど変わる
いくつになっても
その気になれば
ぐんぐん進む
変わることを信じて
発奮すれば
必ず変わる
この信なくこの勇なきもの
あたら宝玉を塵(チリ)にうずめる

今のコロナ騒動は、新しい時代、新しい自分に変わるチャンスのような気がします。

超越ではなく横超

親鸞の言葉に、「横超(おうちょう)」というのがあります。これは「横ざまに超える」ことで、ふつう言う超越とは意味が違います。親鸞は、超越することを竪超と言っています。

「超越とか堅超は、上へ向かって努力して乗り超える、飛び超える」ことですが、横超は、努力が要りません。
「すぐ隣にある道へ一跨ぎすれば、本当の悟り、自由自在な自分が歩んでいることに気が付く」というようなイメージでしょうか。

私が言おうとすることは、ヨーガの話です。
一所懸命努力して、アーサナ、呼吸法、冥想を日々練習し、生活も正しく調える、そしていつしか幸せな自分、自由自在な自分(カイヴァリヤ)を獲得するというイメージが、ヨーガです。

横超は、そうではありません。
「横ざまに超えたら、アーサナ、呼吸法、冥想、生活の全てが、そのまま自由自在な自分が現前している」ということになります。

これは、ヨーガスートラやハタヨーガプラビティーカなどとは違う道と言えるかもしれません。

バガヴァッドギーターでいう「バクティ」に相当するといっていいでしょう。
「バクティ」は日本語で、信愛、献身と訳されますが、普通に理解されるよりも、もっと徹底的に人生そのもの、命そのもの、存在そのものありようを信じ切った態度です。
これは、苦しんだり悩んだりしていることの全てが、悟っていることそのものの現れだということになるかと思います。

ニローダの意味

焦る心を止めるのは、難しいですね。
でも、もし焦る心が自然に静かに消えれば、そこに努力は必要ありません。

今、焦っています。心の中で「まだ早い。待った方がいい」と感じています。「アンフェアーなことだから、やめた方がいいのではないか」という漠然とした感じがあります。
けれどもなかなか我慢が出来ないものです。

行動を止めようとして努力することを、心の働きを制御するということが出来るでしょう。

一方、呼吸を調えて静かに坐っていたら、自然に焦りが消えていることに気が付くことがあります。行動をしようとする心はいつしか消えているのです。
それを「心の働きを止滅すること」というのではないでしょうか。

今、ヨーガスートラのⅠ-2の「ヨーガとは、心の働きをニローダすることだ」のニローダの二通りの訳を「焦り心」に当てはめて考えてみました。

ニローダを「制御する」という意味と、「止滅する」という意味の二通りの解釈があることは、ヨーガを勉強しているとすぐに知ることになるのですが、初めの人にとって理解が厄介です。

ヨーガスートラをズーッと読んでいくと、ニローダの意味は止滅でなく制御することとして丁寧に解説しているように思えます。

止滅と理解すると、そんな解説は無用に思えます。
止まり滅するには、自我意識は全く必要ありません。自我が、おのずから消えていることだからです。
この場合ですと、これに続く章節は、単なる饒舌なのです。すべて飛び越して、最終章の最後(Ⅳ-34)のカイヴァリヤに直ちに到達していることになります。

止滅すると云う理解は、むしろ禅に近いでしょう。禅にも大量の饒舌があります。饒舌なのにそのような饒舌を否定しているという特徴があります。
それが、禅問答という形で凝縮されている考えていいでしょう。

今は省きますが、禅とヨーガスートラは、兄弟のようなものです。

話を最初に戻しましょう。

姿勢を正し、呼吸を調える時、自然に心が静かになります。
一瞬にして静かになるには、毎日これの実践を繰り返す必要がありますが、これをすることによって人生に得られることは、とても大きいものです。

坐禅と冥想とは何が違うのだろう

独坐大雄峰という言葉がある。碧巌録にある百丈禅師の言葉だ。
また、道元の只管打坐はよく知られている。姿勢を正してただ坐っている状態は、お釈迦様の悟りそのままだ、というような意味だ。

禅では結跏趺坐、あるいは半跏趺坐が正式だけど、正坐でも、胡坐(スクアーサナ)でも、とにかく坐った瞬間、それが正しく坐れていれば、それだけで体と心がどっしりと落ち着く。
坐禅とは、これだけの事だ。

一方、冥想は厄介だ。心(マインドあるいはチッタ)を何とかしなければならない。

私は、坐禅のシンプルさが好きだ。

 

熱中症とコロナ

今年の夏は、熱中症が心配されている。つまり、マスク着用が熱中症になりやすいと。

ところが、熱中症の症状がコロナの症状とよく似ていることで、紛らわしい。そういう注意を喚起するサイトがあった。
何が似ているかというと、「全身倦怠(けんたい)感、頭痛。吐き気や食欲がないといった消化器症状。筋肉痛、関節痛、発熱」である。
この文面を読んで、皆さんはどう感じるだろうか。
私は、セリエのGAS(汎適応症候群)を思い出した。

セリエは、「病気、そして毒や過労、人間関係の不和、けが、やけどなど刺激を受けるとその刺激に対して人間は、非特異的に反応する」というストレスの概念の基本を世に示した人だ。

ヨーガというのは、まさに様々なストレスに対して身心が疲弊していくのを非特異的に防ぎ、適応能力を高めるものだ。

このストレス学説は、西洋科学が産んだ概念だが東洋的な身心思想に通じる重要な学説だ。

ヨーガに興味を持って、これを続け、また人にもこれを伝えようとする人は、セリエの事を詳しく勉強しておく必要があるかと思う。
その理由の一つに、彼が最初に学生時代に抱いた疑問を最終的に解き明かしていく、姿勢と態度に感動を呼び起こすストーリーがあるからだ。これは、「生命とストレス」(ハンス・セリエ著、細谷東一郎訳、工作舎)に書かれている。
この本は、どんなことでも、研究し、探求をする人には、とても参考になると思う。

 

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